2015年09月28日

釜の蓋


釜の蓋が開かない,

というのと,

釜の蓋が開く,

というのとでは,随分意味が違う。

落語で,よく,

「釜の蓋が開かない」

という言い回しをする。せんだって聴いた『もう半分』でも,老爺が,

「(棒手振り仕事でも)休んだら,釜の蓋が開かない」

というような言い方をしていた。『芝浜』でも,

「「文句はそのくらいでいいの?いつ商いに行くの?」
「そうゆう入り方してきたの?」
「暮らしもあるからねぇ。そんなにお酒呑む人じゃなかったから。楽しそうに見えないの。何かあったの?うるさかったら、ごめんよ。勘弁してもらぉ。月ぃまたいじゃったよ。釜の蓋が開かないよ」
「・・・・釜の蓋が開かないとは、これいかに?」
「何?」
「鍋の蓋でも開けとけよ」
「鍋の蓋も開かないよ」
「じゃ、水瓶の蓋でも・・・」
「ふざけんのはやめとくれよ。

てなやりとりがある。『らくだ』でも,

商売に出ないと、釜のふたが開かないと帰りたがる屑屋を引き留め酒を飲ませる,

というところがある。

どうやら,推測するに,

おまんまの食い上げ,

というような意味なのではないか。お米がないから,焚けない,焚けないから,蓋の開けようがない,というような感じだろうか。でも,なぜ釜の蓋なのだろう。

通常「釜の蓋」と言うと,

地獄の釜の蓋,

を指し,辞書(『広辞苑』)には,

正月と盆との16日は,閻魔にお参りする日で,鬼さえもこの日は罪人を呵責 しない,の意。殺生の戒めに用い,またこの日を藪入りとして住み込みの雇い人にも休養を与えた,

とある。その地獄の釜は,

地獄で罪人を煮るための釜で, 火炎の釜、膿と血の湯釜、蛆虫の水釜,

があるらしい。因みに,

釜蓋朔日(かまぶた ついたち)

というのがあり,

(旧暦の)「七月朔日には、地獄の釜の蓋が開く」

ということで,この日を釜蓋朔日というそうである。七月はお盆の月(暦月),釜蓋朔日はそのお盆の月の始まりとされるようである。

地獄の釜の蓋が開くとどうなるのか,

というと,

地獄に閉じこめられている精霊がこのあいた釜の口から出てくる。こうして地獄から出てきた精霊たちは,子孫の待つ家へ戻ってくる。

「この期間は祖霊が戻ってくるだけでなく、いろんな霊があの世とこの世を行き来するともいわれています。
そして、川や海などがあの世とこの世の通路になるため、お盆は川や海に近づくとあの世に引きずり込まれるといわれたりします。祖霊をあの世に送りかえすための精霊流しも、川や海などがあの世とこの世の通路になるからです。
川や海と同様,井戸もあの世とこの世の通路になることがあります。」

との,一文があった。

「地獄の釜の蓋も開く」

とは,

正月と、お盆は、みんな仕事を休みなさい、

という意味だとされる。

そう考えると,

「釜の蓋が開かない」

というのは,

おまんまが食えない,

という意味というよりは,

(地獄の蓋が開く日があるように)釜の蓋が開かない,

つまり,貧乏ヒマなしで,

休めない,

という含意がなくもないような気がする。そういう思いで,

「釜の蓋が開かないよ」
「・・・・釜の蓋が開かないとは、これいかに?」
「何?」
「鍋の蓋でも開けとけよ」
「鍋の蓋も開かないよ」

のやり取りを聴くと,休めないほど貧乏という含意も見えなくもない。

因みに,「竈」は,

竈處

で,井を井戸というのと同じ使い方らしい。








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posted by Toshi at 05:34| Comment(0) | ことば | 更新情報をチェックする
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