2015年10月11日

捏造


谷岡一郎『科学研究とデータのからくり』を読む。

科学研究とデータのからくり.jpg


「現在,日本学術会議では,研究者の『不正行為』という語のかわりに,『ミスコンダクト』という表現をもちいる」として,そのミスコンダクトについて,

「たちの悪さを」あらわす五段階レベル,

としてまとめている。

レベル1は,単なるミス。書き写し間違い,思い込み,知らずに引用,記述洩れ。
レベル2は,未熟・不作法。研究者として当然持っているべき知見が不十分。たとえば,実験ノートの不備,方法論上の不適格性(変数の無視,数式の誤適用),因果関係の誤用や不備,とんちんかんな受け答え。

ここまでは,過失の領域,と著者は言う。

レベル3は,ずさん・一方的。強引な解釈,追試への非協力,意識的な他人のデータの借用,二重投稿,質問へのはぐらかし,強引な解釈・主張。

レベル3のどこかで過失が不正に変わる分岐点があるるこの段階では,既に量的・質的に不誠実なものは,不正領域にある,と著者は言う。

レベル4は,意図的ミスリード。不作為による嘘,批判者に対する無視,研究費の流用,不都合なデータ,結果への不言及,根拠のない主張,グラフと票によるミスリード。

レベル4は,不正と言えるレベル,著者は言う。

レベル5は,犯罪行為。論文の登用,データ操作,データ改ざん,捏造。

しかし,である。デジタルのように,境界線が引けるものか。これを読みながら,著者は,判定者の位置にいる。ご自身が,研究者なら,線引きの曖昧な領域がある。その辺りの,研究者としての忸怩たる感覚がまるでなく,正義の味方面,がどこか,かえって胡散臭い。

同じ,ウイリアム・ブロード&ニコラス・ウエイドの『背信の科学者たち』を例示に挙げながら,科学者としての内心に迫っていた,『嘘と絶望の生命科学』の榎木英介氏は,

「実は小保方氏のSTAP細胞論文が騒動になりはじめたとき,バイオの科学者たちは,それほど驚かなかった。もちろん,画像の切り貼り,画像の流用,文章のコピーペーストなど次々と明らかになる疑惑を目の当たりし,多くの研究者はさすがに絶句したが,実はバイオ研究の論文が結構適当で,ときにウソが交じっていることは,バイオ研究者のあいだでは広く知られたことだったのだ。」

と,書いていた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410499800.html

で,触れたが,ここにあった,科学の最前線における,不正とねつ造のボーダーラインについて,著者には,ほとんど認識を欠いている,というか,裁判官として立っている(研究者の埒外という)立ち位置が気になって仕方がない。

たとえば,小保方氏について,

「客観的にみれば,小保方氏はかならず行為であるが,バレるウソをつき,そのとおりにバレ,自分が窮地に追い込まれたことになる。」

と書き,

「『目立ちたがり』は,よくウソをつく。一種の有名病なのだろう。」

と断ずる。しかし,榎本氏は,

「ある論文では,たった一つの画像に,ちょっとだけいじったあとがあった。ある論文では,二つの画像に。ある論文では三つの画像に。その先に,総ての画像やグラフがどこか別のところから持ってきた,完全なニセ論文がある。どこに線を引くのか。そして,誰がその線を引くのか。」

その「誰」に,ご自分は立つ資格があるのか,ということに微塵も疑問を感じていないらしいことに違和感がある。

さらに,榎木英介氏は,研究者の立ち位置から,

「研究者は,まず“真実”はこうだろうと想像し,『最初はあいまいな仮説』を立てるところからはじまる。つまりこの段階では『ねつ造』であるといえる。そして,人間が未知のことを理解するのは,パトリック・ヒーランが『科学のラセン的解釈』説で述べているように,『最初はあいまいな仮説(つまり『ねつ造』)→試す→都合のいい部分を残し,不都合な部分を変える(拡大・分化,つまり『改ざん』)→試す,のラセン的上昇で,〈知〉が生産される』ので,ある発見のプロセスがこのようだから,発見にはある種の『ねつ造→改ざん』作業が必然なのである。」

とまで言い切るのである,そして,

「不正とそうでないものの境界はどこにあるのか…これが意外に難しい。」

と。たとえば,

「実験を何回もすれば,ときに変なデータが出てくる。実験のウデの問題なのか,それとも,試薬がおかしかったのか。では,そんな『異常値』が出たときにどうするのか。異常値だけ集めるか,異常値を分析の対象から外してしまうか……異常値だけ集めたデータと,異常値を外したデータは全然異なるものになるかもしれない。つまり,自分の主張にあうデータだけを集めることができてしまうのだ。」

そう考えると,「異常値の一個くらいは消した経験がある研究者」は多いだろう,と。さらに,

「(画像の)加工しなくても,ウソはつける。何十回も何百回も実験を行って,たまたま自分のたてた仮説にピッタンコの写真がとれた。そういう写真を『チャンピオンデータ』と呼ぶ。いわば,『奇跡の一枚』みたいなものだ。……しかし,たまたま出たチャンピオンデータだけを貼り合わせると,あたかもその仮説が証明されたかのようにみえてしまう。」

確かに,これは,捏造,改竄,盗用には当たらないが,その境界線は微妙だ。この著者が,本書で断罪するように,一刀両断できるとは思えない。

最後に,気になったのは,フロイトを似非科学と同列に論じていることである。これには驚く。患者を通して,帰納的に得たのがフロイトの仮説である。その中には,脳科学で今日,立証されつつある部分もある,という脳科学者もいる。仮説とはそういうものだ。アインシュタインの仮説だって,光より早いものがあると,つい最近大騒ぎになったではないか。その辺り,どうも,科学を必要以上に狭く限定しているのではないか。ひょっとすると,ご自分で仮説を立てるということをやられたことがないのではないか,と勘繰りたくなるような妄説である。蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,なのかもしれない。

参考文献;
谷岡一郎『科学研究とデータのからくり』 (PHP新書)
榎木英介『嘘と絶望の生命科学』(文春新書)








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posted by Toshi at 05:20| Comment(0) | やる気 | 更新情報をチェックする
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