語り


先日,ACファクトリー20周年記念公演『Teacher』

http://acfactory.com/teacher.html

を観てきた。

ティチャー.jpg


前回,『師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間~』を観たとき,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/421142508.html

で書いたように,語り手役の青年が,狂言回しとして登場することについて,

「青年の語り手役としての説明が,場面と重複して,結構煩わしい。なくても,観ている側には十分わかる。この語りのための場面展開が,一種の暗転代わりになってはいるが,その分スピード感を削ぐ。単純にフェイドアウトさせないで,あえて,予告的に語らせる意図はよくわからなかった。」

と書いた。たとえば,

「私は,かくかくの次第で,こういうところへ行くことになりました。」

と語って,その場面にその青年が登場するのと,いきなり,その場面に登場するところから,舞台が始まるのと,どこが違うか,というと,

あくまで,その青年が語り手になっているために,その場面は,その青年の体験している世界を,観客が見ている,という構造になる。小説で言うと,

語り手としての,「私」の視点

であったり,

何某という登場人物の視点

から,語っていく,というのがそれに当たるだろう。そのとき,語られていることは,あくまで,「私」や「何某」の目を通しての世界,ということになる。違う視点で,例えば,作家が,俯瞰する視点(神の視点とか言われる)から描く時の,あくまで,外部から,その場面を描こうとするのとは,その語られている世界が,違う,ということだ。それは,

私的世界,

というか,現象学的世界,ということになる。

で,前回,その必要性はあるのか,という意味で,

「敢えて勘ぐると,劇進行についての親切なのだろうか。しかし大きなお世話という感じがなくもない。その分,進行のスピード展開が遅れ,場面そのものに向いている観客の視線を,わざわざ場面と切れた,ちょうど幕前で進行を説明する『ト書き』を設けているような,場面の流れから視線を外させるような気がして,気になって仕方がなかった。こういう構成は,前にも観たことがある気がするが,それは,ピエロ役のような,場面の展開上,部外者であることが多いような気がする。」

と疑問を呈した。それは,そこでの青年の体験そのものを,いきなり場面として描い他方が,はるかにストレートだと感じたからだ。

今回も,同じように,新人の女性教師が,就任する学校を訪れる,と自分が語るところから始まり,折々,ストップモーションのように,舞台が止まり(あるいは暗転して),彼女にスポットライトが当たり,自分の心境や,状況や,あるいは,「ここから,〇〇なことが起こるとは予期していなかった」といったような,を説明をする。

で,着任した学校で,出迎えた教師たちとの間で,どたばたがあるのだが,そのドタバタ自体が,受け入れのための儀式,通過儀礼というか,イニシエーションだった,という落ちである。

で,はじめは同じパターンだな,この作家というか演出家の好みなのか,と思ったのだが,この作品に関してだけは,そうではないことに気付いた。

つまり,これを,普通に,着任した学校で,

いきなりドタバタする場面に遭遇した,ということを描く,

のと,

着任する新人教師がドタバタ場面に出会う,

のとでは,少し違う。前者だと,観客は,着任した新人が職場で受け入れのお試し儀式の洗礼を受ける,という場面を見ることになる。しかし,後者だと,新人教師が語り手なので,観客が見ているのは,新人教師の目を通して,彼女の体験したドタバタを目撃させられている,ということになる。

その意味で,微妙だが,両者は違う。

そして,今回に限っては,あくまで,新人の目を通して,彼女の体験した世界を目撃している,という構成が,その体験がハチャメチャで,現実離れしていればいるほど,その効果がある。

例えば,妄想している人を見るのと,妄想している人の妄想そのものを見るのと,の違い,というと,大袈裟かもしれないが,そんな違いである。









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