フレーム


報美社(代表・竹山貴)主催の,

http://gallery-st.net/

「前嶋望 個展」に伺ってきた。

前嶋望展.jpg


フレームというか,視界というか,視角というか,アングルというか,を意識している画家だという印象を強く受けた。

確か,ロラン・バルトは(バルザックの『サラジーヌ』の構造分析を通してだが),

「文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。」

と書いていた。その続きは,

「《現実》について語ることができるためには,作家は,…まず《現実》を描かれた(枠に入れられた)対象に変えなければならない。…したがって写実主義(まったく名前が悪い。とにかくしばしば誤解されている)とは,現実を模写することではなく,現実の模写(描かれた)を模写することなのである。」

とある。その「窓枠」を,フレームと置き換えてみればよくわかる。現実の切り取り方,という言い方がふさわしいのかもしれない。フレームを持ちながら,上に上げたり下げたり,広げたり縮めたり,視野を自在に切り取ることができる。

視界というのは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425947852.html

で述べたように,

目で見通すことのできる範囲。視野。

という意味で,眼や光学機械の見える範囲,を指す。見える限界,である。同義語とされる,視野は,

眼を動かさずに知覚できる周辺視の範囲,

という意味らしく,

外界の一点を凝視するとき、その点を中心として見える範囲,

という意味になる。そういう視野を,絵の設えたフレームが観る人を強いることになる。

そのことを,強く感じさせる作品が,結構ある。

「漂う青」

と題された作品は,海の底から見上げた角度で,泳ぐ魚が描かれている。その他,タイトルは忘れたが,魚をやや後上部から泳ぐ魚を描いたり,クラゲが逆さに泳ぐ(吸い込まれる?)を描いたり,と,そうした着眼を意識した作品が僕には目に留まった。

僕は,よくパースペクティブという言葉を使う。あるいは,

視界が開く,

とも言う。文学でも絵画でも,自分の視界を開くというのが,それを楽しむ意味である。その辺りは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389193629.html

で描いたことと通じる。世界の見え方を決めるのは,

窓枠,
あるいはフレーム,

だと思う。それは,窓枠によって,

世界が現前する,

ということである。そこに,視界の新しさがあり,価値があり,意味がある。クリエイティブを,ざっくり,

新しい視界,

と呼ぶとすると,

前嶋・秋.jpg


僕は,今回の個展の中では,

「漂う青」
「笛と太鼓」(これが一番いい)
「おなかがすいた」

という題(だったと記憶している)三作が,印象に残った(特に「笛と太鼓」が一番いいと思う)。しかし,僕には少し物足りない感じが残った。僭越ながら,まだかすかな既視感がある。

確かに,案内ハガキにあった「秋思」というタイトルの絵や,「風は砂塵まじり」のライオンなどにみる色遣いの特色も新鮮だが,個人的には,色よりは,独特のアングル志向に強く惹かれた。

参考文献;
ロラン・バルト『S/Z』(みすず書房)




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