2015年10月30日

〈私〉


永井均『〈私〉の存在の比類なさ』を読む。

私の存在の比類なさ.jpg


著者は冒頭でこう書く。

「それにしても,ある新しい問題提起が人々に理解してもらえるためには,どれほどの根気と労力と時間が必要であることか,この間の私は痛感せざるをえなかった。人々は,頑ななまでに新しい問題提起というものに鈍感で,かつ拒絶的である。そして,どういうわけか,問題が世の中で少しでも注目されるようになると,今度は精確に理解しようともせずに,さまざまな角度からその問題の悪口を言って,なんとかそれを旧来の枠組みに押し込めてしまおうとする人が,次々と現れるのである。自分にとって異質な問題が存在すること自体がたえがたいような人々が居るらしいのだ。これは私にとってまったく予想外のことであった。」

そして,こう付け加える。

「問題を感じない人は入ってこないでほしい。ひょっとすると,私はただ特殊な種類の錯覚にとらわれているだけかもしれない―それはありうることだ―が,たとえそうだとしても,それが如何なる錯覚であるかを解明できるのは,―同じ種類の錯覚に悩まされた経験のある人だけなのである。これは,誰もが問うべき人生と世界に関するもっとも重要な問題などではない。ある種の人間にとっては,それどころではない,人生と世界に関する他のさまざまな重要(とされる)問題が馬鹿馬鹿しくなるほどの,とびぬけて重大な,おそらくは唯一の問題であろうが,別の種類の人にとっては,意味さえわからない,とただ馬鹿馬鹿しいだけの愚問であろう。」

ここまで境界線を張られると,自分はどうやら境界外の人間らしいと感じるのだが,それはそれとして,関わったかぎりで,読み取ったものをまとめていくと,まず,著者が自分で書いた冒頭の文章を俎上にのせるところから始まる。

「自分と他人は違う。自分のことはよく分かるが,他人のことはよく分からない。いま自分が何を考え,何を感じているか,それは手に取るようによくわかる。しかし,いま他人が何を考え,何を感じているか,これは手に取るようにはわからない。この自他の非対称性は,誰もが知っている事実である。」

ここでいう「自分」という言葉を問題にする。

「この文章に登場する『自分』とは,すべての人にとっての自分自身を意味している。誰にとっても,自分が何を考え感じているかは手に取るようにわかるが,他人が何を考え何を感じているかはわからない,と言っているわけである。そして事実,この段落は『この自他の非対称性は,誰もが知っている事実である』という文で結ばれている。しかし,そうだとすると,少々奇妙なことが起こる。『すべての人』のほとんどは他人なのだから,この文章の筆者は他人にとっての他者問題と自分にとっての他者問題とを同時に提起していることになり,そのことの内で自他のある非対称性が,つまり一つの他者問題が暗黙の内にすでに乗り越えられてしまっている,ということである。」

僕は思うのだが,この文章をすっとスルーして行けるなら,たぶん,この問題提起とは無縁なのであり,ひとつのリトマス試験紙のような位置にあるのではないか。

少し前のところで,心を持った何某にそっくりのロボットと,心を抜き取られた何某という「ロボット問題」の思考実験を設定して,

「外部から窺い知ることができないはずのこの変化が,外部にいるものにとっても,有意味な変化であるように思えるのはなぜだろうか。」

と問い,こう考える。

「この問題には,私の考える真の他者問題へいたる二つの通路が,同時に示されている。第一は,『他者』とはもちろん外部から与えられる規定であるにもかかわらず,他者性のうちには外部からの接近を絶対的に拒絶する地点が必ずある,というパラドクシカルな事態である。(中略)
 (更にそれを敷衍して,次に,仮に自分が心を抜き取られるという事態を想定して)もし,自分に起こるこの変化に意味を認めるならば,当然,他人に起こるこの変化にも意味を認めないわけにはいかない。その理由はかんたんである。他人もまたそれぞれ,この意味での『自分』,つまり『私』でありうるはずであるからである。そのことを前提にして,この『ロボット問題』は立てられていた。しかし,そうだとすると,問題は奇妙な様相を呈することになる。最初の問題は,この私ただひとりを別にして,他人とロボットの違いをめぐって立てられていた。誰もがそのつもりで問題の意味を理解する。ところが,誰もがそのように理解するというまさにそのことによって,しかもそのことが問題の提起に際しては実は暗に前提されているという事実によって,解答が問題の中にあらかじめ入り込んでしまうのである。(中略)これが他者問題にいたる第二の通路なのである。」

と。ここでも,暗黙の内に,共有化できる視点で見た「自分」「私」を前提にしている,その意味では,立てられた他者問題を,前述の記述と同様,乗り越えられている,と言うのである。この機微,

ある意味での主体,

のポジションの微妙さが,すべての前提になっている。で,冒頭の「自分」を「私」に置き換える,つまり,「自分」という言い方で,自分をメタ化かした視点から,発話主体の視点に置き換えるとどうなるか。

「この文章にも二義性はある。その『私』とは誰か? という問いがつねに立てられるからである。しかしこの問いには,それはこの私ひとりを指示する,と応えることがつねに可能なのである。もちろん,その『この私』とは誰か? という更なる問いがつねに立てられざるをえない,としてもである。
 しかし,この更なる問いがつねに立てられざるをえないという事実は,他者問題に非常に特殊な問題性を与えている。すなわち,他者問題は,まさにこの事実によってこそ,他の人々と共有される問いとして,すなわち客観的な『問題』として定式化されうるにもかかわらず,同じその事実によって,当初の問題感覚は定式化された『問題』の内ではつねにすでに裏切られた形でしかあらわれない,という点である。(中略)問題として感じられた当初の他者問題が,はじめから万人にとっての他者問題という形をとっているなどということは,ことの本質上,本来ありうるはずのないことである。にもかかわらず,立てられた他者問題はもうすでに万人にとっての他者問題に変質してしまっているのである。」

にしても,著者のこだわりは,この変質にある。フッサールの『デカルト的省察』やメルロ=ポンティの『知覚の現象学』などでは,「ほぼ一貫して『私』という第一人称主語によって語られている。」。実際,われわれも私(僕)という一人称によって,文章を書くこともある。この「私」とは誰を指しているのか。

「もしかりに,彼らがそれぞれ自分自身だけを念頭においてその文章を書いたとしても,読者は(フッサールやメルロ=ポンティの書いた私小説を読むつもりでないならば)各自の『私』のこととしてそれを読み換えるはずである。そして実は,著者たちはその読者の立場を先取りしつつその文を書いたのである。読み換えはいつもすでに始まっているのだ。ここでの『私』は,だからすでに,みんなの『私』なのであり,論じられている問題は,それを論じる文の内で,あらかじめ暗黙の内に解決されているのである。」

そこで,「私」という表記について,

①著者自身とっての著者自身の「私」
②著者(一般的に,フッサールであったり,メルロ=ポンティであったりする等々)
③(読者それぞれの)各自にとっての自分自身を指す指示作用としての「私」

と区分して,

「問題は,(著者自身とっての著者自身の「私」という)指示作用は,他人(ここでは著者以外の人)に伝達される際には,(著者か読者の「私」)に読み換えられざるをえない」

と言う。著者は上記①~③は図示しているが,ここでは便宜的に記述して表現しておくが,こういう転換を,著者側の例として,デカルトを引いて,

「欺くならば力の限り欺くがよい。しかし,私が私は何ものかであると思っているあいだは,彼はけっして私を何ものでもないとすることはできないでろう。こうして,すべてを存分にあますところなく考え尽くしたあげく,ついにこう結論せざるをえない。『私はある,私は存在する』というこの命題は,私によって言表されるたびごとに,あるいは精神によって把握されるたびごとに,必然的に真である,と。」

こう分析する。

「デカルトは明らかに…(①)の指示作用を遂行しているつもりで,『私』と発話していた。なぜなら,方法的懐疑のその段階においては,並び立つ他の人間(他の諸精神)はもはや存在せず,そのうえさらに,『デカルト』という固有名で指示される人格的同一性を具えた一人物もまた,すでに懐疑の対象となって廃去されていたはずであるからである。だから,もしこの段階で,デカルトとまったく同じ主張をおこなう別人がいたとしても,デカルトはその人物に賛成するわけにはいかなかったはずである。存在を疑いえない『私』とは,『私』一般ではなく『この私』ただひとりでなければならず,しかもそれはデカルトという一人物ではなかったはずだからである。ところが,引用文の後半で『「私はある,私は存在する」というこの命題は,私によって言表されるたびごとに,あるいは精神によって把握されるたびごとに,必然的に真である』と言われるときには,おそらくもうすでに…(②③)に変質してしまっているのである。デカルト的な省察を他人に伝達しようとする場合,これはおそらく避けることのできない変質なのである。そしてまたおそらく,その変質可能性こそが…(①)の指示作用をはじめて可能ならしめているのである。」

言表し,伝えようとする時,その変質作用抜きではないとしても,

「それを語ろうとするならば無理を承知で…(①)の「私」に固執せざるをえない,あるきわめて特殊な事情が存在するように思われる。」

だからこそ,デカルトの位置と意味がある,と著者は言いつつ,

「たまたま自分自身であるところの一人物でもなければ,誰にでも備わっている自我といったものでもない,〈私〉の存在,そこから出発するのでなければ,他者の問題の深みに達することはできない。」

著者は,〈私〉と表記することの意味は,「語の指示作用に関する意味論的な主張」ではなく,

「世界の構造に関する存在論的な主張のために導入」

されたものだ,と。では〈私〉とは何か。ここでも著者は,〈私〉の利用を図示していているが,

①は,世界として表示された中に人間がいる,
②は,〈私〉の前に広がる世界で,他人がその中にいるが(〈私〉はそこにいない)
③は,世界の中に他人たちがいる,
④は,世界の中に,私と他人たちが一緒にいる,

と区分する。

「私が存在している場合,世界は,…(②)のような形をしている(…③は私の視点から見たその断面図である)。…(②および③)は,しかし,私が永井均という世界内の一人の人間として同定されることによって,…(④)に転変する。」

この転変は,上記の①の指示作用が②に変るのに対応している。そして,③④は,私が世界を表象する二つの方式,を示している,という。そして,

「ここでまず気づくことは,私が生み出され,今ここに存在しているということは,まったく奇跡的な出来事だ,ということである。」

それを別のところで,こう書く。

「その驚きは,過去・現在・未来の無数の人間のうち,この人間が,そしてこの人間だけが,私であり,他はそうではない,という事実のもつ〈偶然性〉と,それら無数の人間のどれも私ではない(私は存在しない)ことできたはずなのに,実際にはそうなっていない,という事実のもつ〈奇跡性〉という,二つの驚きに分解することができる。」

ただしそれは,

諸々の性質を特定の仕方で束ねてできた一人の人間が存在していることでも,
それらの諸性質の基体たる永井均という個体が存在することでも,

ない。それは,①と②の世界の違いでもある。難しいことに,

「その明らかな差異は私以外の誰にとってもなんら差異ではないのである。」

という点なのだ。だから,その〈私〉を,

永井均を指示する「私」でも,
誰にとっても自分自身を意味する「私」

でもない。この〈私〉を説明するのに,解説の茂木健一郎氏が,「それは違う」と言いづけているように,差異で伝えるほかにない。人に伝えるようにした瞬間,それぞれが共有できる「私」に変換してしまうからでもある。だから,

認識上の「私」でもないし,
感覚上の「私」でもないし,
自我の「私」でもないし,
自己意識の「私」でもないし,

と言い続ける。それらは,多く,「単独性」ではあるが,「独在性」ではない。そこにあるのは,言表という共有化で失われてしまう何かである。

「『私…』と語りだすとき,われわれは自分が他人と同様に知覚し予期し意味するひとりの人間であることを前提している。『私』という概念もまた差異化的に構成されているのである。では『実質』は? これも同様であって,われわれはそもそもあの図の面(著者は,『実質を面で表現し,差異を線で区画』した図を示している)を表現する言葉を持たないのである。」

この表現する言葉を持たないことについて,この少し前で,ヴィトゲンシュタインの,

「見られたものから言葉へのこの私的な移行に対して,私は規則を適用することができない。ここでは規則が宙に浮いている」

を引用し,

「(線になされた差異という)戦による区分は…意味を与えることのできない私的な事実である。この私的な事実に固執すると,『赤』という言葉は〈私〉に赤く見える当のものを,『痛み』という言葉は私が今生々しく感じているこの痛みを,…表現しているかのような(またしうるかのような)錯覚が生まれる。」

と述べ,

そして,

「『体験』も『感覚』も『自我』も『この私』もそして『実質』も『面』も,差異を表現する公共言語である。しかし,そうしたあらゆる差異化の網打ちをのがれて,語りえぬ―その上示されもせぬ―何かが在る。それは,非言語的に最も真近であるがゆえに言語的に最も遠い―決して到達できぬ―世界である。」

そのことき「この私」(〈私〉)であり,この何某である,「この」としか言いようのない何か,である。

ヴィトゲンシュタインは,

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

と言ったが,それでは,〈私〉は伝わらない。「それは違う」「それは違う」と言い続ける,違いの中で,際立たせていくほかはないのかもしれない。だからこそ,〈私〉について,

「〈私〉であるという軌跡が〈人〉のもつ如何なる物理的・心理的諸性質によっても規定されえない…のと同様に,〈私〉であり続けるという軌跡は,〈人〉としてのいかなる物理的・心理的連続性によっても保証されない」

と書き,ヴィトゲンシュタインが「私の魂」とよんだそれを,〈私〉と同様,

〈魂〉

と名づけ,

「それは存在しないこともできたはずなのになぜか存在している,現実に『最も重要な意味において隣人をもたない』存在者を,すなわちこの〈私〉(しかし永井均ではない)」

と付言せざるを得ない,この〈私〉なのである。

参考文献;
永井均『〈私〉の存在の比類なさ』 (講談社学術文庫)



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posted by Toshi at 05:56| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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