2015年11月13日

批評


柄谷 行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』を読む。

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著者は,冒頭で,

「本書は二つの部分,カントとマルクスに関する考察からなっている。この二つは分離されているように見えるけれども,実際は分離できないものであって,相互作用的に存在する。私がトランスクリティークと呼ぶものは,倫理性と政治経済学の領域の間,カント的批判とマルクス的批判の間のtranscoding,つまり,カントからマルクスを読み,マルクスからカントを読む企てである。私がなそうとしたのは,カントとマルクスに共通する『批判(批評)』の意味を取り戻すことである。いうまでもなく,『批判』とは相手を非難することではなく,吟味であり,むしろ自己吟味である。」

と書きはじめる。カントの,『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の「批判」であると同時に,マルクスの,『資本論』の国民経済学(ポリス的経済学)批判の批判でもある。文庫版のあとがきに,

「カントをマルクスから読むとは,カントをヘーゲルに乗り越えられた人ではなく,ヘーゲルが乗り越えられない人として読むことだ。マルクスをカントから読むとは,カントがもっていたがヘーゲルによって否定されてしまった諸課題の実現を,マルクスの中に読むことだ。」

と,その意図を説明する。陰の主役はヘーゲルということになる。なぜか,

「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互関連体系においてとらえたのは,『法の哲学』におけるヘーゲルである。それはまた,フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものである。ヘーゲルは,感性的段階として,市民社会あるいは市場経済の中に『自由』を見出す。つぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正して『平等』を実現するものとして,国家=官僚を見出す。最後に理性的段階として,『友愛』をネーションに見出す。ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国家を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである。
 ヘーゲルはイギリスをモデルにして近代国家を考えていた。ゆえに,そこにいたる革命は今後においても各地にあるだろう。しかし,この三位一体的な体制ができあがったのちには,本質的な変化はあり得ない。ゆえに,そこで歴史は終わる,というのがヘーゲルの考えである。」

しかし,その後,(今日に至るまで)本質的な変化は存在しない,だから,いまヘーゲルを批判することは,いまも強固な資本=ネーション=ステートを超える方法を考えることである。

資本=ネーション=国家の流れについては,イントロダクションで,著者は簡潔にこうまとめているのがわかりやすい。

「国家,資本,ネーションは,封建時代においては,明瞭に区別されていた。すなわち,封建国家(領主・王・皇帝),都市,そして農業共同体である。それらは,異なった『交換』の原理にもとづいている。…国家は,収奪と再分配の原理にもとづく。第二に,そのような国家機構によって支配され,相互に孤立した農業共同体は,その内部においては自律的であり,相互扶助的,互酬的交換を原理にしている。第三に,そうした共同体と共同体との『間』に,市場,すなわち都市が成立する。それは相互的合意による貨幣的交換である。封建的体制を崩壊させたのは,この資本主義的市場経済の全般的浸透である。だが,この経済過程は政治的に,絶対主義的王権国家という形態をとることによってのみ実現される。絶対主義的王権は,商人階級と結託し,多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し,封建支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ,国家と資本の『結婚』にほかならない。商人資本(ブルジョアジー)は,この絶対主義的王権国家のなかで成長し,また,統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した,ということができる。しかし,それだけでは,ネーションは成立しない。ネーションの基盤には,市場経済の浸透とともに,また,都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで,自律的で自給自足的であった各農業共同体は,貨幣経済の浸透によって解体されるとともに,その共同性(相互扶助や互酬制)を,ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。(中略)フランス革命で,自由,平等,友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように,資本,国家,ネーションは切り離せないものとして統合される。だから,近代国家は,資本=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完し合い,補強しあうようになっている。たとえば,経済的に自由に振る舞い,そのことが階級的対立に帰結したとすれば,それを国民の相互扶助的な感情によって解消し,国家によって規制し富を再分配する,というような具合である。その場合,資本主義だけを打倒しようとするなら,国家主義的形態になるし,あるいは,ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で,後者がファシズムである。
 (中略)資本は,人間と自然の生産に関しては,家族や農業共同体に依拠するほかないし,根本的に非資本生産を前提にしている。ネーションの基盤はそこにある。一方,絶対主義的な王(主権者)はブルジョア革命によって消えても,国家そのものは残る。それは,国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家はつねに他の国家に対して主権者として存在するのである。したがって,その危機(戦争)においては,強力な指導者(決断する主体)が要請される。ボナパルティズムやファシズムにおいてみられるように。現在,資本主義のグローバリゼーションによって,国民国家が解体されるだろうという見通しが語られることがある。しかし,ステートやネーションがそれによって消滅することはない。(中略)資本=ネーション=ステート…のどれかを否定しようとしても,結局この環の中に回収されてしまうほかない。」

要するに,これは,思弁的な哲学的課題でも,遠い過去の歴史的課題ではなく,今日のわれわれの世界を変えるために何をすべきかを考える現代の課題そのものなのである。著者は,「まだ萌芽的なものでしかない」と,断っているが,著者なりの,資本=ネーション=ステートの回路の外へ出る処方箋を,本書の終りに提案している。

本書では,著者は,カントとマルクスに共通するキーワードを,

視差,
移動,
あるいは,
差異,

という言い方で表現しているように見える。

「カントの哲学は超越論的―超越的と区別される―と呼ばれている。超越論的態度とは,わかりやすくいえば,われわれが意識しないような,経験に先行する形式を明るみにだすことである。」

それは単なる反省ではない。

「カントの反省には,『他者』が介在している。」

ただし,それは,「自分の視点から見るだけではなく,『他人の視点』からも見よ」というようなありふれたことではない。

「もしわれわれの主観的な視点が光学的欺瞞であるなら,他人の視点あるいは客観的な視点もそうであることをまぬかれない。であれば,反省としての哲学の歴史は『光学的欺瞞』の歴史でしかない。カントがもたらした反省とは,そのような反省が光学的欺瞞でしかないことを暴露するような種類の反省である。反省の批判としてのこの反省は,私の視点と他人の視点の『強い視差』においてのみもたらされる。」

それは,カントにおいて,「テーゼとアンチテーゼのいずれもが『光学的欺瞞』にすぎない」という,アンチノミー(二律背反)として現れる。マルクスにおいても,

「『ドイツ・イデオロギー』の時期,彼は直前まで自身がその中にいたヘーゲル左派を批判した。(中略)ドイツのイデオロギーとは,先進国イギリスにおいて実現されていることを観念的に実現しようとする後進国の言説にほかならない。しかし,マルクスにとって,それは彼自身がはじめてドイツの言説の外に出ることによって得た,或る衝撃をともなう覚醒の体験であった。それは,自分の視点で見ることでも他人の視点で見ることでもなく,それらの差異(視差)から露呈してくる『現実』に直面することである。」

著者が,本書でしようとしたことは,要するに,

「重要なのは,マルクスの批判がつねに『移動』とその結果としての『強い視差』から生まれていることだ。カントが見出した『強い視差』は,カントの主観主義を批判し客観性を強調したヘーゲルにおいて消されてしまった。同様に,マルクスが見出した『強い視差』は,エンゲルスやマルクス主義者によって消されてしまった。」

その消されたものを,読み直すということだ。だから,

「私はカントやマルクスの,トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を『トランスクリティーク』と呼ぶ」

のであり,ここでしようとしているのは,

「トラスヴァーナル(横断的)な,あるいは,トランスポジショナルな移動なしにはありえない」

という超越論的な批判なのである。要は,カントとマルクスがやっていた,トランスクリティークな批判を両者の読みに対して試みようとしている,ということなのであろう。

そのキーワードは,超越論的という言葉である。先の自分の視点,他人の視点,それぞれの光学的欺瞞をも暴くのもそれだが,著者は,「批判的場所(critical space)」と名づけている。デカルトのコギトについて,

「デカルトのコギト(我疑う)は,システムとシステム,あるいは,共同体と共同体の『間』において見いだされる。この『間』は,たんに『差異』としてあり,実体的にあるのではない。」

と書く。この言い方は,そのまま,著者が,カントやマルクスのコペルニクス的転回を述べる時の,このコペルニクス的転回そのものの説明によく現れる。まさに,これこそが,コペルニクス的転回の超越論的な見方である。

「コペルニクスがもたらしたのは,それまでプトレマイオス以来の天動説においてつきまとう天体の回転運動のズレが,地球が太陽の周りを回転すると見た場合に解消されるということである。…天動説を指示する者もコペルニクスの計算体系を用いざるをえなかった。彼らは,本当は太陽が地球の周りをまわっているのだが,計算上においてその逆である『かのように』考えることができたのである。だが,『コペルニクス革命』はむしろそこにこそ存したというべきである。重要なのは,地動説か天動説かではなく,コペルニクスが,地球や太陽を,経験的に観察される物とは別に,或る関係構造の項としてとらえたということである。」

この超越論的構造が,カントにも,マルクスにも当てはまる,と著者は指摘している。ところで,

「カントが『実践理性批判』で最も批判したのは,『幸福主義』(功利主義)である。彼が幸福主義を斥けるのは,幸福がフィジカルな原因に左右されるからだ。つまり,それは他律的だからだ。その意味では,自由はメタフィジカルであり,カントが目差す形而上学の再建とはそのこと以外にはない。」

と書く。カントは,『実践理性批判』の中で,

「幸福の認識は,まったく経験的事実にもとづくものであり,また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され,そのうえこの臆見なるものが,また極めて変り易いものだからである。」

という。カントがいうのはこういうことだ。

「われわれは自由意志などないと考えなければならない。われわれが自由な選択だと考えるものは,原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき,はじめて,『自由』はいかに可能かということが問われるのだ。(中略)カントは,自由は義務(命令)に対する服従にあるといった。(中略)それは,『自由であれ』という命令である。…カントがいう『当為であるがゆえに可能である』という言葉にも謎はない。それは,自由が『自由であれ』という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない。」

それは,他者に関わる。

「この『自由であれ』という義務は,むしろ。他者を自由な存在として扱えという義務に他ならない。カントがいう道徳律とは,『君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を,けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず,つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ』(『実践理性批判』)ということである。」

それはそのまま,プルードンの次の言葉に重なる。

「汝が人にしてもらいたくないようなことを,他人に対してなすなかれ。汝が他人にしてもらいたいように,他人に対してなせ。」

という行動の準則に重なっていく(孔子も似たことを言っていた)。この道徳律は,

「根本的に経済的である。(中略)生産関係を前提にしている。それなしに成立するように見える『人格的』関係は僧院や学生寮において成立するような夢想にすぎない。(中略)カントがいう『目的の国』は物質的経済的基盤に置いてある。…かくして(新カント左派のヘルマン・)コーヘンは,カントを『ドイツ社会主義の真実の創始者』と呼んでいる。実際コミュニズムは,他者を手段としつつ,なお且同時に他者を目的として扱うような社会でなければならない。それは,『他者を手段としてのみならず目的として扱うこと』を不可能にする社会的システムを変えることによってしかありえない。」

だから,当然,この道徳律は,

「根本的に政治的である。(中略)カントが政治的次元を否定するどころか,道徳的なものの実現は政治的次元なしにはありえないと考えたことである。カントがいう『目的の国』は具体的には世界共和国として実現されなければならない。そして,それは,ネーション=ステートの集まりである国際連合のようなものとは根本的に異質であることに注意すべきである。」

として,カントはこう書いている。

「各国家をして,国内的に完全であるばかりでなく,さらにこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定する」

と。だから,著者は,

「カントの倫理学は,たんに道徳次元にとどまりえず,政治的・経済的なものとして,歴史的に実現されるべき理念(コミュニズム)をはらまずにはいないのである」

と。ここから,マルクスを照射していくことになる。その結果の著者の,

資本=ネーション=ステートの回路の外へ出る処方箋

は,本書を読む楽しみとして残しておくべきだろう。

参考文献;
柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』 (岩波現代文庫)


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:59| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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