2015年11月25日

恋愛


小谷野敦『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』を読む。

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「比較恋愛思想史」が専門という著者の,日本のそれであるが,適宜他国と対比しつつ,わが国をポジショニングし直してくれている。ただし,彼我ともに,直接的資料があるわけではないので,文芸作品を通して見た,それであるということであるが。

著者の主張の特徴は,「序文」に,

「日本における恋愛思想は,谷崎純一郎が『恋愛及び色情』(1931)で述べている通り,女性崇拝的な平安朝文化と,女性蔑視的な武士および町人の文化とで違っていて,同じ『前近代日本』の『色』の文化などとくくることはできない。遊里を舞台とし,娼婦を恋の相手とするのは,近世町人の遊治郎の文化であり,一般的な倫理とは違うものであった。
 1980年代以降の恋愛やセックスの研究は,一方で階層による違いを無視していた。徳川時代において性が自由であったかのように言うのはその最たるもので,武家,上層の農民,商人の家では,娘の貞操はそれなりに厳しく守られたものである。また西洋においても,近代的な恋愛は十七世紀辺りから市民階級を中心に徐々に広まったものである。近世日本では,遊里における娼婦相手の『恋』という概念が広まったりしていたので,明治の知識人青年は,あたかも西洋の小説に描かれるように『恋愛』を新しいものとみなしたが,中世以前の文藝には別種の恋が描かれていた。」

とあるように,その時代に,いまの世界を投影することへの戒めである。たとえば,滑稽なのは,

恋愛輸入品説,

である。これは,

「『恋愛』は,明治になって西洋から輸入されたしそうである,という説である。」

むろん「恋愛」という言葉は,明治になって造語されたが,「恋」はそれ以前からあったはずである。なのに,

「前近代の日本は,『色』の世界だった。」

というものである。それは,江戸時代の遊里を中心とする「洒落本」の遊里文化を指している。しかし,著者は言う。

「明治の文学者が,今の一般的知識人のように物を知っていたというわけではない。彼らは『源氏物語』を中心とする王朝女流文藝について,ほとんど知らなかった。『源氏』を読んでいたのは,尾崎紅葉,田山花袋,近松秋江,与謝野晶子などで,晶子は明治末に現代語訳を出したが,売れず,読まれなかった。『源氏』を一般の読書階層が読むようになったのは,実に昭和十四年に谷崎潤一郎の現代語訳がベストセラーになってからで,それはアーサー・ウェイリーが英訳を完成させた後だった。
 漱石の時代の知識人は,英語が非常によく出来た。また,漢文を中心とした教育を受けた。世界各国の文学に『恋愛』は現れるが,漢文学だけは別である。漱石が,英文学というのを漢文詩のようなものだと思って専攻し,のちに失望したというのはよく知られる話だが,漢文学というのはいわゆる文学=リテラチュアではなく,漢詩と歴史,道徳などを中心とした『文』のことで,なかんずく漢文学は恋愛を軽視し,女性蔑視的だった。」

つまり,そうした明治期の文学者は,徳川期の軟文学はよく知っていた。だから,一方で,

「遊里での遊びを描いた洒落本や,男女の三角関係を描き,藝者などが登場する人情本,あるいは近松門左衛門の世話浄瑠璃の心中ものなどで,それらは娼妓,藝者が恋の相手だった。」

という世界がある。しかし著者は,それを一般化するのを否定する。

「娼婦相手に『恋』をするのは特殊である。それは近世後期,江戸,大阪の遊治郎の間に成立した特殊文化であって,とても日本の前近代の恋愛思想として一般化できるものではない。」

と言い切る。しかし他方,明治期,知識人は,

「西洋をあまりに理想化し過ぎ,日本について知らな過ぎた傾向があった。日本は遊郭や芸者があるみだらな国で,西洋はキリスト教の国々だから一夫一婦制で,清らかな恋愛をしている,というふうに過大に彼我の差をとらえ過ぎていたのである。」

著者は,

「近代恋愛は精神性を重視した,というが,それはある程度いいとしても,実際に西洋でも,そのようなものが広まったのは十九世紀半ば,女性を読者とする恋愛小説が普及してからで,明治維新は1886年だから,せいぜい二,三十年のずれしかない。なるほど,小説という形式は,西洋で発達し,日本へ持ち込まれたものである。そして,小説と恋愛が深い関係をもつのは事実だ。だから,たとえば中国やインド,東南アジアで,近代になった小説が輸入されたり,恋愛が広まったりした,というなら,まだ話は分かる。実は一番具合が悪いのが,古典若や平安朝物語で,さんざん恋愛が描かれた日本なのだ」

と,輸入品論者を,皮肉る。そして,

確かに,「恋愛」という言葉は,明治二十年頃定着したが,それまでは,

『日本情交之変遷』(宮崎湖処子)

というタイトルがあるように,

情交,
とか,
愛恋,

とされていた。「愛する」という言葉も,明治期以降に使われ出したと思われがちだが,

「徳川時代の文藝では,『愛する』というのは,目上の者が目下の者をかわいがる意味で使われていた」

というし,「愛敬(あいぎょう)法」という秘法が,平安から中世に行われていたが,まさに,

「『愛』は恋愛の愛で,むしろ政治的に,結婚したい相手の心がこちらへ向くように行われる法」

だという。

著者のものの見方を示す好例は,次のような分析である。

「当時の中産階級では,女の結婚適齢期は二十歳前後である。さらに,その相手は,家柄はもとより,資産や職業をもっていなければならない。だから十歳くらい上の相手と結婚させられた。…漱石の『三四郎』で,三四郎は二十三歳で,同年の里見美彌子に恋をするが,だから,美彌子は既に婚(い)き遅れであり,同年でしかも学生の三四郎と結婚できないのは当然なのである。」

「三四郎は下宿する学生ながら,下女がいる。つまり福岡の豪農出身の中産階級なのである。」

で,中流というのを,

「高度経済成長以後の日本人は,家政婦とか子守とか,他人を家に入れることを極端に嫌がるようになったため使用人がいるという条件を外すにしても,中流と言えるには,庭のある一戸建ての五百坪くらいの家を持ち,ほかにしかるべき財産がなければなるまい」

と厳格である。つまり,一億中流化などは幻想ということである。そして,恋愛というとき,そういう社会的背景抜きに,一般化してはならない,という考え方なのだ。で,

「平安文藝では,女に恋する男がヒーローたりえた,といえるが,徳川後期文藝では,女にもてる男が英雄となった」

と,時代の価値観の変化を,フレーズ化したが,現在について,

「恋愛思想の近代は終わってはいないのである」

と,本書を締めくくる。それは,過大な西洋の理想化と過小な日本評価が終わっていない,という意味を持含んでいるようである。

参考文献;
小谷野敦『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』 (中公新書)


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posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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