火車とは,
かしゃ,
と訓むが,宮部みゆきの小説のタイトルのことではない。
火車とは,辞書(『広辞苑』)によると,
火が燃えている車。生前に悪事をした亡者を乗せて地獄に運ぶという,
という意味である。その他に,火車には,
火車婆の略,
中国語における蒸気機関車もしくは列車のこと,
太古中国で火薬の発明から発展して作られたといわれるロケット兵器,
葬送の時にわかに風雨が起こって棺を着とばすこと,
といった意味もある。最後のそれは,ここで言おうとしている,いわゆる「火車」と関係がある。『大言海』に,「くわしぁ」として,
「仏説に,生前に悪事をせし亡者,地獄に堕ちむとする時,これを迎ふる車なりと云ふ」
の意味の他に,
「葬送の時,俄かに風雨起こりて,棺を吹き飛ばすことあるを,くわしぁと云ふ。妖ありて,屍を取らむとするにて,即ち,地獄の火車の,迎へに来たりしなりとて,大いに恐れ恥ずことなりと云ふ。」
とある。火車婆も,
(来世は火車に乗せられて地獄に落ちるからという)悪心の老婆,おにばば,
を指し,まあ,(地獄に堕ちそうな業突く張りという)悪口である。
「火の車」と訓むと,当然,「火車」の意味もあり,
(火車の訓読)地獄にあるといわれる火の燃えている車,獄卒が罪ある死者を乗せて地獄に送る,
という意味もあるが,
生計の極めて苦しいすこと,
という,よく知っている意味になる。
『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/hi/hinokuruma.html
には,火の車(ひのくるま)について,
「火の車は,仏教語『火車(かしゃ)』の訓読みした語。火車は火の燃え盛った車で、極卒の 鬼が生前に悪行を働いた者を乗せて地獄へ運び、責め苦しめるといわれる。 火の車に乗せられた者は、ひどい苦しみを味わうことから、苦しい経済状態を表すようになった。また苦に満ちた世界(娑婆)を,火事にあった家に喩えた仏教語『火宅』と関連づけられ,火の車が家計が苦しいことを意味するようになったともいわれる。」
とある。火車については,
http://dic.pixiv.net/a/%E7%81%AB%E8%BB%8A
に詳しいが,火車と火の車について,
「前者は、僧侶が仏教の死生観を民衆にわかりやすく伝えるために生まれた法話『地獄縁起』(じごくえんぎ)に源を発しており、『生前に重い罪を犯した亡者が地獄へ送られる際に押し込められる獄卒が曳く獄炎の車』という本来の意味が時代と共に『悪人の魂を地獄に送る死神』へ形を変えたものである。
なお、貧窮に喘ぐ様子を表す例えの1つ『火の車』はこの獄炎の曳車が語源であり、車に入れられた亡者が地獄に着くまで業火に焼かれながら責められ続ける苦況を余裕の無い台所事情に置き換えたものである。また、別説によると『火車は死んだ悪人を、火の車は生きたままの悪人を地獄へ連れ去る別個の存在である』とされている。
後者は、人間の死没との因果関係について怖れを抱く日本特有の怨霊信仰と密接に結び付いた慣習から生まれた民話に源を発しており、『悪人が死ぬと葬列を襲って死体を奪い去り、五臓を引きずり出して食い荒らす』という悪鬼の類として描かれている。」
と,懇切である。堤氏は,
「源信『往生要集』によれば,人はこの世での善行悪行の報いにより,死して極楽に迎えられる者もあれば,地獄に堕ちてさまざまな責め苦を受ける者もる。そのありさまを眼前に見るがごとくに具象化した六道絵,十王図などの仏教絵画が平安・中世から江戸期を通して数多く製作され,絵解きに用いられたり,寺院本堂の余間に懸けられたりして俗徒の信仰心を喚起した。また,近世には『往生要集』の絵入版本が量産されることによって,冥府の具体的な様相を大衆の心象に根付かせることになった。」
と言い,その地獄絵の一隅に,しばしば描かれたのが,
「牛頭馬頭の鬼卒の引く火の車であり,堕獄した亡者が乗せられ身を焼かれてられる…。さらに悪行ある者は命おわるとき必ず火車が飛来して冥苦の世界に連れ去る」
図なのであり,そのイメージか強かったのではないか,説く。それは,仏法の因果応報を解きつつ,一方で布教のため,高僧の法力を示す場として,時に,渡辺綱のような,妖怪退治の話として,語られることになる。
前者の例としては,
「(益子の鶏足寺を開いた)天海禅師は大罪人の葬儀を敢えて引き受け,自分の舌根を血みどろの戦いにより亡者の遺骸を火車妖鬼から守りぬいた」
という法力咄があり,後者の例としては,
「武勇の誉れ高い松平五左衛門近政という侍……(は)友人の妻が死に,野辺送りに参列した折のこと,葬列が村はずれにさしかかったところで突然空が暗くなり,雷電風雨とともに一群の黒雲が棺桶を目指して襲いかかる。見ると妖鬼が雲中から手を出して遺体を奪おうとしているではないか。人々の屍をつかみさる『火車』の怪事とは,まさにこのことであった。人々は恐れ逃げまどうが,抜刀奮戦する近政の活躍で,片手を斬り落とされた妖鬼は,黒毛を生じた三本爪の腕を残して退散する。」
という。
(鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「火車」)
(佐脇嵩之『百怪図巻』より「くはしや」)
昨今,火車の妖鬼はない。火の車も,言葉としていつの間にか,あまり使われなくなった。しかし,悪行がなくなったのでも,貧困がなくなったのでもない。どうやら,見て見ぬふりをしているだけだ。というか,おのれの内しか見ていない。だから,現実のおのれのことも,他人のことも,見ようとしていない。それは,おのれが地獄に堕ちても気づかぬということだ。そういう恐れすら消えてしまったのかもしれない。それは,人間としての劣化ではないだろうか。
参考文献;
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)
http://dic.pixiv.net/a/%E7%81%AB%E8%BB%8A
http://www.youkaiwiki.com/entry/2013/01/20/%E7%81%AB%E8%BB%8A(%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%BB%8A_(%E5%A6%96%E6%80%AA)
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