2016年01月17日

こんな晩


「こんな晩」

とは,殺されたモノの怨霊が死後数年たって殺したものの子供に憑りうつるという因縁咄風の民談で,昔話として伝わるが,

六部殺し,

と重なることが多い。それは江戸の戯作にも引き継がれ,堤邦彦氏は,

こんな晩型説話,

と呼ぶ。たとえば,こんな話だ(山東京伝『安積沼後日仇討』)。

「高野参詣の旅僧を嵐に紛れて斬り殺して金を奪った過去をもつ大日九郎,いまは与九郎と名を変えて女房との間に男児をもうけている。ある雷雨の夜,四歳になるまで言葉を発しなかった息子が,父親に抱かれながら,『とと様,旅の僧を殺した晩はこんな晩であったのふ』とつぶやく。」

典型的な,「こんな晩」だが,多くは,,

怨魂の転生した子供が放蕩,犯罪などの乱行を繰り返して親の財産や親の命までおびやかして破滅に至らしめる,

という内容になる。夏目漱石の「夢十夜」にも,

「昔、或る満月の晩、一夜を頼んだ六部を,夫婦は金を目当てに殺した。数年後、夫婦の間に一人の男の子が生れた。ところが、いつまで経っても息子が口を利けない。そんな或る日、男がもう寝ようとしているところへ息子が来て、
『おっとお、おらおしっこへいきてえ』
と言った。今まで一言も喋らなかった自分の息子が、とうとう話したのである。男は嬉しくて、息子を負ぶって外にある雪隠へと連れて行った。丸い月の綺麗な夜だった。雪隠まで歩く男の背中には、先程生れて初めて喋った自分の息子がいる。男が未だ尽きぬ笑顔の儘に、満月を見上げると、
『・・・こんな晩だったなあ』
再び息子が喋った。
『お前が俺を殺したのも、丁度こんな晩だったなあ』」

と,似た話がある。六部と僧の違いだけである。

六部については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425587798.html

で触れたときに,

六部殺し(ろくぶごろし)についても書いた。

「日本各地に伝わる民話・怪談の一つ。ある農家が旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する、というのが基本的な流れである。最後の子供のセリフから、『こんな晩』とも呼ばれる。」

とある。この話には,大体こんな感じらしい。

「ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。
その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める。田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。すると突然、子供が初めて口を開き、『お前に殺されたのもこんな晩だったな』と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。」

これも書いたことだが,六部とは,六十六部が正式で,

「法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。」

を指す。略して,六部(ろくぶ)と呼ぶ。辞書(『広辞苑』)には,六十六部について,

「廻国巡礼の一つ。書写した法華経を全国66ヵ所の霊場に一部ずつ納める目的で,諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期にはじまる。江戸時代には俗人も行い,鼠木綿の着物を着て鉦を叩き,鈴を振り,あるいは厨子を負い,家ごとに銭を乞いて歩いた。」

「こんな晩」型の話は,落語の『もう半分』につながっていく気がする。『もう半分』は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%86%E5%8D%8A%E5%88%86

に,

「夫婦で営む江戸の居酒屋に、馴染みの棒手振り八百屋の老爺の客がやって来た。老爺は,いつものように『もう半分』『もう半分』と,半杯ずつ何度も注文してちびちびと飲み、金包みを置き忘れて帰って行った。夫婦が中を確かめると、貧しい身なりに不釣合いな大金が入っている。しばらくすると老爺が慌てて引き返し、娘を売って作った大事な金だから返してくれと泣きついた。しかし、夫婦は知らぬ存ぜぬを通して追い出した。老爺は川へ身投げして死んだ。その後、奪った金を元手に店は繁盛し、夫婦には子供も生まれた。だが、子供は生まれながらに老爺のような不気味な顔で、しかも何かに怯えたように乳母が次々と辞めていく。不審に思った亭主が確かめると、子供は夜中に起き出して行灯の油を舐めている。『おのれ迷ったか!』と亭主が声を掛けると、子供は振り返って油皿を差し出し『もう半分』」

と,概略が載る。因縁話はほぼ重なる。

おおく殺されるのが,僧であったり,六部であるところから,この咄自体が,

「仏者の立場から提唱されたのではないか」

と想定される。

「経文の説く不偸盗・戒殺の教えに背く罪深い行為として民衆教化の法席に語られたはずである。」

とされるのも,唐由来の仏教説話や勧化本にしるされた僧殺し,もしくは僧物奪取の悪報譚から来ているらしいこととも関係があるのだろう。堤氏は,

「噺のルーツをさかのぼれば,中国の鬼索債譚(金を貸した者の死霊が不返済の借り主の子に転生して家財を食いつぶす)に行きあたる」

と。しかし,それが,説話から,江戸時代の戯作,漱石へと沁みとおっているのは,

「説話環境として,『こんな晩』の伝承世界に対する民衆の共通理解が不可欠である…。非道に命を奪われた者の再生を因果応報の当然の結果として捉える共同幻想の素地がなければ,この話の怪談としての生命力は半減してしまうのではないか。」

と,堤氏は言う。さてしかし,今日,因果応報は,生きているのであろうか,我々のこころに。

参考文献;
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)



ホームページ;
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今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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