倫理


マックス・ウェーバー『職業としての政治/職業としての学問』を読む。

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本書は,ウェーバーの二つの講演録である(バイエルン州の自由学生同盟主催,ミュンヘン大学で講演)。ウェーバーは,この講演を,1919年,ドイツ革命が起こり帝政が崩壊し,ワイマール共和国成立という動乱の時期に行っている。『職業としての政治』の終りのところで,

「わたしたちはみなさまと10年後,この問題について話し合いたいとおもっています。」

と語る。そして,こう予言めいたことを語っている(ウェーバー自身は,翌年亡くなっているが)。

「10年後にはおそらく,残念ながら様々な理由から,反動の時代がすでに始まっているという予感がしますし,みなさまの多くが期待しておられることは,そしてわたしもともに期待していることは,まったくでないにしても,ほとんど実現されていないのではないかと感じるのです(すくなくとも見掛けのうえではということですが)。これはかなりたしかなことで,それでわたしの心がくじけることはないとしても,気持ちが重くなるのは間違いありません。そこでわたしか知りたいのは,みなさまのうちで,いまは自分が純粋な『信条倫理に基づいた政治家』であると考えておられ,革命と呼ばれる熱狂に参加しておられる方々が,10年後等は精神的にどう『なっている』だろうかということなのです。」

と,そして,こう言うのである。

「一見すると現在は〈わが世の春〉を謳歌しているように見える人々のうちで,誰が生き延びているでしょうか。」

と。

1921年ヒトラーがナチ党の指導者となり,33年にヒトラー内閣が成立する。そういう時代を予期していたような言葉である。しかし,ウェーバーは,そういう事態にどう対処するかが,政治を仕事にする人間に問われる,として,最後をこう締めくくる。

「すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを,今すぐにそなえなければなりません。それでなければ,今可能であることさえ,実現できないでしょう。…世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人,どんな事態に陥っても,『それでもわたしはやる』と断言できる人,そのような人だけが政治への『召命』『天職』をそなえているのです。」

いまの日本の政治状況が,ナチ台頭で風前のともしびのワイマール共和国のドイツの状況とよく対比される。いま,このウェーバーの問題意識は,今日の我々の胸に,ずしりと響くのはそのせいだ。これは我々にも問いかけられていることでもうる,と。

さて,ウェーバーは,この講演で,政治史をひもときながら,ドイツとイギリス,アメリカを対照しつつ,

「権力を行使し,その権力の行使に伴う責任を担いうるために,職業的政治家」

に必要な資質として,

情熱

責任感

判断力,

を挙げる。そのカギは,メタ・ポジションであるように見える。

「それがどれほど純粋な情熱であってもたんなる情熱では十分ではないのは明らかなことです。情熱が『仕事』に役立つものとして,仕事への責任という形で,行動の決定的な指針となるのでなければ,政治家にふさわしいものではないのです。そしてそのためには,判断力が必要なのであって,これは政治家に決定的に必要な心的な特性です。この判断力とは,集中と冷静さをもって現実をそのままうけいれることのできる能力,事物と人間から距離を置くことのできる能力のことです。」

その距離は,

「自分のうちに潜んでいる瑣末で,あまりにも人間くさい〈敵〉と闘い続けねばならないのです。この敵とは,ごくありふれた虚栄心で,これはすべての仕事への献身の,すべての距離(この場合には,自分と距離をおくことですが)の不倶戴天の敵なのです。」

という,自分も含めた距離をおく,メタ・ポジションを意味している。そのための政治家の倫理として,

信条倫理

責任倫理

を挙げる(信条倫理は,従来心情倫理と訳されてきたものだが,訳者の中山元氏は,原語から考えると,心映え,心構えという意味であり,心情ではなく,信条を取ったとする)。

「信条倫理的な原則に這従って行動するか(宗教的に表現すれば,キリスト教徒として正しく行動することだけ考え,その結果は神に委ねるということです),それとも責任倫理的に行動して,自分の行動に(予測される)結果の責任を負うかどうかは,深淵に隔てられているほどに対立した姿勢なのです。」

僕は,信条倫理に基づいていると見える我が国の首相を思い浮かべながら,次の言葉を噛みしめる。

「わたしとしては,この信条倫理の背後に,どれだけ精神の重みがあるのかまず問いたいのである。…自分の追っている責任を実感しておらず,ロマンチックな情緒によっているだけのほら吹きだという印象をうけるのだ」

と(まさにその通りなのが笑えるが),そして,「息を吐くように嘘をついても平然としている」,責任感の完全欠如した御仁を思い浮かべつつ,次の言葉を胸に刻む。

「わたしが計り知れないほどの感動をうけるのは,結果にたいする責任を実際に,しかも心の底から感じていて,責任倫理のもとで行動する成熟した人が(若い人か,高齢の人かを問いません),あるところまで到達して,[ルターのように]『こうするしかありません,わたしはここに立っています』と語る場合です。これは人間として純粋な姿勢であり,感動を呼ぶのです。なぜなら精神的に死んでいないかぎり,誰もがいつか,このような場にたたされることがありうるからです。その意味では信条倫理と責任倫理は絶対的に対立するものではなく,たがいに補いあうものであり,『政治を職業とする』ことのできる真の人間を作りだすものなのです。」

以上は,『職業としての政治』だが,『職業としての学問』でも,自己抑制,というか学者の倫理を強調する。

「教師が学問的な姿勢で政治に取り組んでいる場合,…実践的に政治的見解を表明することと,政治組織や政党の姿勢について科学的に分析することは,まったく別の事柄」

であり,

「教室や講堂でたとえぱ民主主義について語るとすれば,民主主義の様々な形態を示し,それぞれの形態がどのように機能するか分析し,社会生活においてそれぞれの形態がどのように影響を及ぼすかを確認し,これを民主主義的でないその他の政治秩序と比較するのです。これによって聴講者は,自分が何を究極の理想とするかに応じて,民主主義について取るべき姿勢を決める拠り所をみいだせるようになるのです。そして真の教師であれば,明確に表現するか暗黙的に表現するかを問わず,教壇から自分の見解を押しつけるようなことは避けるでしょう。『事実をして語らしめ』るためにも,このような態度をとることが不誠実なものであるのは,明らかだからです。」

とし,それを,

価値判断

事実判断

と区別し,教師は,預言者でも指導者でもデマゴーグ(民衆政治家)でもなく,後者に基づく姿勢が,教師の自己抑制であることを強調している。

学問のもたらすものは,

技術についての知識,

であり,学問は,

物を考えるための方法を提示し,そのための道具と訓練を提供する,

のであり,それによって,

明晰さ,

をもたらすものなのであり,現実の中で,

「目的と,採用しなければならない手段とのあいだで選択を迫られることになります。そして目的が手段を『正当化する』かどうかが問われることになるのです。教師は諸君に,この選択が必然的なものであることを教えることができます。しかし教師が教師であって,煽動政治家になろうとしないかぎりは,教師はそれ以上のことを教えることはできないのです。(中略)私たち教師は,自分がどのような仕事を為すべきかを理解している限り(もちろんここではそれを当然のこととして前提にしなければなりません),個々の学生に対して,自分の行為の究極の意味に責任を負わせることができるのであり,あるいはそのための手助けをすることができるのです。」

確か,記憶で書くが,ミシェル・フーコーも,学者としてのそのような弁えを語っていた。結局,責任を取るとは,

(自らの立場と役割を)弁えている,

ことなのだ,とつくづく感じる。そして,それが,

その人の倫理,

なのである,と。言うまでもなく,倫理とは,この場合,その人が,人として,

いかに生きるか,

という生き方そのもののことである。

参考文献;
マックス・ウェーバー『職業としての政治/職業としての学問』(日経BPクラシックス)


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