花に嵐
「花に嵐」とは,
花に嵐とは、良いことには、とかく邪魔が入りやすいことのたとえ,
として使われる。
『故事ことわざ辞典』
http://kotowaza-allguide.com/ha/hananiarashi.html
には,
「好事を『花』に見立て、『嵐』はそれを散らして吹く激しい風の意。花がきれいに咲くと、激しい風が吹いて撒き散らしてしまうことから、良いことにはとかく邪魔が入りやすいことをいう。『花に風』とも。」
とある。「花に嵐」と言うと,前にも挙げたが,于武陵の「勧酒」という漢詩,
勧君金屈巵 君に勧(すす)む金屈卮(きんくつし)
満酌不須辞 満酌(まんしゃく)辞するを須(もち)いず
花発多風雨 花発(ひら)けば風雨多し
人生足別離 人生別離足る
を,井伏鱒二が,
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
と訳した。
http://homepage1.nifty.com/yasuki-a/toku-kanshu.html
によると,井伏は,
「講演のため林(芙美子)とともに尾道へ行き、因島(現尾道市)に寄ったが、その帰り、港で船を見送る人との別れを悲しんだ林が『人生は左様ならだけね』と言った。井伏は『勧酒』を訳す際に、この “せりふ” を意識したという」
とある。僕は,この訳詩を,田中英光の
『さようなら』
で知った。太宰治が,それを,絶筆
『グッドバイ』
に,このフレーズを載せた,といわくつきである。
「花に嵐」に似た言い回しに,
好事魔多し
寸善尺魔
月に叢雲(「花に風」と続く)
花発いて風雨多し
等々がある。しかし,これは視点を変えれば,たとえば,
人間万事塞翁が馬,
という言い方になる。それは,
「人間万事塞翁が馬とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。」
という意味であり,
『故事ことわざ辞典』
http://kotowaza-allguide.com/ni/saiougauma.html
によれば,
「昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は『そのうちに福が来る』と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に『塞翁が馬』ともいう。『人間』は『じんかん』とも読む。」
となる。これは,『淮南子(えなんじ)』人間訓にある故事による。似たものに,
禍福は糾える縄の如し,
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり,
楽あれば苦あり,
上り坂あれば下り坂あり,
楽は苦の種、苦は楽の種,
となる。たとえば,「禍福は糾える縄の如し」とは,
幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだということのたとえ,
であり,
『故事ことわざ辞典』
http://kotowaza-allguide.com/ka/kafukuazanaerunawa.html
によれば,これも,『史記・南越列伝』『漢書』によるらしく,
「『史記・南越列伝』には『禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえば糾える縄の如し』とあり、『漢書』には『それ禍と福とは、何ぞ糾える縄に異ならん』とある。」
という,因みに,
「糾える」は文語動詞「あざなふ」の命令形+完了を表す、文語助動詞「り」の連体形からで、「あざなふ(糾う)」は「糸をより合わせる」「縄をなう」
を意味するそうだ。「花に嵐」と「塞翁が馬」と違いがあるとすると,
月に叢雲
と
禍福
との,時間軸の長さだろう。
参考文献;
井伏鱒二『厄除け詩集』(筑摩書房)
田中英光『さようなら』(現代新書)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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