2016年02月28日

マインドサイト


コリン マッギン『マインドサイト―イメージ・夢・妄想』を読む。

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著者は,「まえがき」で,ウィトゲンシュタインとサルトル(『想像力の問題』)を刺激に,広範囲な想像力の問題を,

「体系的にアプローチし,さまざまな想像力の事例を秩序づける」

ことを試みたとし,

「全体として想像力がきわめて多様な心的現象に関わる能力だと示すことが私の目的である。想像力という主題を巡り,さまざまな心的現象の変奏が繰り広げられる。」

その,

「全体を結びつける糸は,想像と知覚の間の対比と,それが正確に何に存するのかという問題」

であると述べている。「はじめに」で,それを具体的に,

「心に描く想像は外に向けられた本物の目で見ることと同じではないが,まさに心の目で見ることだといえる。ここで私は,見ることは,二つの種類(身体の目で見ることと心の目で見ること)があるという考えを擁護する。両者は根本的に異なるのだが,ともにより一般的な『見る』という概念の事例なのである。だから私は本書のタイトルを『マインドサイト』としたのだ。」

と述べる。最終章で,全体像を整理し,

「私の考える『想像力のスペクトラム』とは,次のようなものである。
 知覚……記憶イメージ→想像的感覚→生産的イメージ→白昼夢/夢→可能性と否定→意味→創造性
 説明しよう。私たちは基本的な知覚から出発した。この知覚は想像によって汚染されていないもの(世界が乳児の感覚に与えるもの)である。この段階ではイメージのようなものは何もない。知覚と記憶イメージの間の「……」はこの明確な断絶を示す。記憶イメージは知覚に由来するが,知覚の一種ではない。」

云々と,述べ,初めて,知覚が仮説としての「知覚」ということを明かすのは,ちょっとルール違反のような気はするが,徹底して,知覚と想像力差異化にこだわり,巻末には,

意図   イメージ(意のままになる)            知覚(意のままにならない)
観察   イメージ(新しい情報を提供しない)        知覚(新しい情報を提供する)
視野   イメージ(視野を持たない,物理的に制約されない) 知覚(視野をもつ 物理的に制約される)
非決定性 イメージ(表現されない属性がある)        知覚(すべての属性が表現される)
注意   イメージ(注意を必要とする)           知覚(注意を必要としない)
不在   イメージ(現前を必要としない)          知覚(現前を必要とする)
思考   イメージ(他の志向により中断される)       知覚(他の思考により中断されない)

等々と,「知覚とイメージの相違点リスト」を挙げてみせる。

特に,注意と意図が鍵になる。

しかし,素人が言うのも,変だが,著者は,イメージと知覚との差異化にこだわるあまり,

「夢はイメージの範疇に入るのか,知覚の範疇にはいるのか」

との設問を立て,知覚ではなく,イメージであることを帰結するために,イメージが意図的,意識的であるという原則と整合性を持たせようとして,

「眠っている人が完全に受動的で,まったく行為の主体ではないと考えるのは間違っているだろう。(中略)夢が随意的な制御とまったく無関係というわけではなく,眠っている人は必ずしも単なる受動的な存在ではない。」

として,こういう(仮説の)提案をする。

「ここで,より過激な(聞いたこともないような)提案が必要だと私は思う。それは,夢の観客と夢の著者(夢の消費者と夢のプロデューサー)を区別する必要があるというものだ。つまり,夢を見る心における『精神の分離』,自己の分割を仮定する必要がある。…そこでは夢の著者は,夢の観客の知識と意識から切り離されて働くことができるため,夢を生成する意図や心的行為は消費者としての夢を見る人の意識には開示されない。夢のプロデューサーは夢の消費者からすると無意識的である。これは,心理的な受動性の錯覚をもたらす。観客は受動的で,意図的に夢を作り出してはいないので,その過程全体が受動的なように思えることになる。」

そして,結論として,

「夢のイメージは無意識的な意図の産物である。」

という。なぜ,夢が知覚かイメージかとの二者択一にしなくてはならないのか,その理由がわからない。少なくとも,夢は,

想像力のアナロジー,

とはなっても,想像的な心的機能とは別なのではないか。ここで,イメージの範疇に入れてしまったために,

(狂気としての)妄想,

も,夢とリンクさせなくてはならなくなっているように見える。想像力は,少なくとも,

意識的な心的操作,

であり,それは,ウィトゲンシュタインの言う,

「~として見る」

と,ほぼ地続きのはずである。これを知覚の範疇として考えようするより,人の,

認知,

の問題として考えることで,創造力の問題の端緒になるはずなのだ。つまり,ウィトゲンシュタインが,三角形の図を例に,

「この三角形は三角の穴とも,物体とも,幾何学の図形とも見ることができる。土台の上に立っているとも,先端からぶら下がっているとも,山とも,矢印のない指示標識…」

と,人は,どのようにも見る。その内的な機制は別として,そこに,実は想像力の鍵があるのではないか。「穴として」とみたとき,三角形は認知されない。その想像力の独自の空間というものにこそ目を向け,知覚を著者のように限定しなければ,われわれが,物を見るとき,

自分の知っているもの,

を見ていて,「穴」とみたとき,紙に描かれた三角形は見(え)ていない。地と図という言い方をするが,物を認める時,現実のそのものとは別のものを認知することは多くある。

うつつを見ないで,見えた(と思うものを見ている),

この現実との差こそが,想像力につながる地平でなければならない。それは,限界まで行けば,

ストーカーの妄想,

につながっていく。しかし夢は,

自己完結し,

現実の認知機能は停止している。脳の機能としていろいろな仮説はあるが,少なくとも意識的コントロールはできない。夢をイメージに加えてしまうことで,何が得られるのか,僕にはわからなかった。

「想像力は広大な領域で現れている。心的イメージから夢や白昼夢まで,狂気,信念と意味,芸術と科学など,創造力はあらゆるものに係っている。」

として,厳密に,境界線を引こうとするよりは,その間の機能の連続性に着目した方が,もっと人間の豊かさが出たように思える。

参考文献;
コリン マッギン『マインドサイト―イメージ・夢・妄想』(青土社)


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 05:18| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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