木村泰司『謎解き西洋絵画』を読む。
ここで著者の言う,「謎」とは,こういう意味である。
「伝統的に西洋美術はある一定のメッセージを伝える手段として制作されてきました。」
だから,
「私たちが美術館で『美術品』として鑑賞する作品には,寓意を凝らして伝えている思想や観念,宗教原理,神話のエピソード,哲学的若しくは政治的な思想,美徳や悪徳,そしてモデルが観る者にアピールしたいメッセージなどが込められている」
しかし,それは,現代人にとって「謎」だという意味である。その謎を解くには,
「作品の持つ時代背景を理解しなければなりません。この時代背景を学ぶことも美術史の持つ奥行の深さの一つです。」
というわけである。そして,
「日本人が西洋美術を鑑賞する際,日本人の美意識がかえって鑑賞の邪魔をしてしまうことがあります。ましてや,現代の日本ではやたらと個人の感性を重要視し,好き勝手に絵画を鑑賞する傾向がありますが,それだけではもったいないと思います。作品の背景にあるメッセージを解読してこそ,作品を緩衝するだいご味が味わえるのです。」
と。仰せ御尤もである。
たとえば,ロベルト・カルピン『メロードの祭壇画』で,絵の中の,
「ネズミ捕りは。神が悪魔を欺くために人間(キリスト)の姿として地上に現れ,そしてそのキリストの十字架上の死は,結局悪魔の滅亡となったことを意味しているのです。」
とか,ラファエロ・サンツォイ『ガラティアの勝利』『サン・シストの聖母』を巡って,キューピットと天使は違うとして,
「キューピットは旧約・新約聖書の物語や成人を描いた宗教画には登場しません。キューピットは古代ギリシャの神々で,性愛の神様エロスの英語名です。(中略)一方,旧約・新約聖書を主題としたキリスト教関連の作品に登場する天使は,本来は純粋な精神体で肉体を持っていないのですが,地上においては物質化して人間のように見えるという考え方に基づいて表現されています。……本来天使は男性でも女性でもなく中性なのです。キューピットのように男性ではありません。」
とか,ベルト・モリゾ『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘』を巡って,印象派なのに,なぜ半径五メートル以内ばかりを描いたのか,
「(ブルジョワ階級という)彼女たちのような社会的階級に属していた女性には,なかなか好きな場所に一人で出かける自由がなかったからです。…当時は女性が戸外で制作することは罵声を浴びせられるくらいに,品のいいことと見なされなかったからです。」
等々,知らないことを知ることの意味はある。しかし,いま,我々が絵を観るのは,お勉強のためでも,教養のためでもなく,21世紀のいま生きる自分への刺激として,観る。すくなくとも,僕は,自分の,
視界を開く,
ために観る。それ以外で,観る必要はない。その時代に必要だったメッセージは,いま必要なメッセージではなく,いまの感性で,絵を観ながら,そこに,新たな視界を開く刺激があるかどうかで,いいのではないか。別に,お勉強として,美術品を観ることを否定はしない。われわれは,知っているものしか,見えない。だから,知識がなければ,おのれの知識でしかものは見えない。しかし,絵を観るのは,それでもいいのではないか,という気がしている。
著者は,ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』について,
「この時代,王族夫妻の肖像画は基本的に一人ひとりで描かれるのが一般的でした。(中略)実際,……フェリペ四世夫妻が同じ絵に描かれているのはこの作品だけです。マルガリータ王女自身もまるでベラスケスに向かってポーズを取っているように見えますが,このカンヴァスは幼い王女を描くには大きすぎますから王女の肖像とは考えにくいのです。…それとも,夫妻だけでなく,『国王一家』という肖像の場合は国王夫妻と子どもたちが一緒に描かれたので,ベラスケスは複雑な構成のもと,家族の肖像を描いたのでしょうか?」
とか,
「鏡には,王女の両親であるフェリペ四世とマリア王妃が鏡に映っています。しかし,この国王夫妻は本人たちなのか,それとも画面左手に立つベラスケスの前にあるカンヴァスに描かれた姿が映っているのかはいまだになぞのままです。」
とか,
「当時,スペインでは画家の社会的地位は低い物でした。彼は宮廷画家としてだけではなく,宮廷の職員としてもフェリペ四世に仕え,王から絶大な信頼を寄せられてはいましたが,本来なら王家の人々と同じカンヴァスに描かれることなど許されませんでした。現代人が想像する以上に当時ではとても不敬なことでした。」
といった謎を挙げています。しかし,僕は,この文を読みながら,フーコーを思い出していた。
ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』
なぜなら,この絵の中にいる自分を描いているベラスケスは,この絵の中で描こうとしている,こちらに立っているフェリペ夫妻と,同じ位置,架空の位置を想定しなければ,この絵の世界そのものが成り立たない,そのポジションについて,フーコーが書いていた記憶があるからだ。その位置は,また,まさに,鑑賞する我々が立っている位置でもある。
フーコーの『言葉と物』では,
「われわれは絵を見つめ,絵の中の画家は画家で我々を凝視する。」
という位置関係をしめし,さらに,
「画家が眼をれわれのほうに向けているのは,われわれが絵のモチーフの場所にいるからにほかならない。」
と書く。そして,画家とモデルとみえない描かれつつある絵との関係を,「潜在的な三角形」として,
「その頂点―可視的な唯一の点―に芸術家の眼,底辺の一方にモデルのいる不可視の場所,他方に,裏がえしにされた画布のうえにきっと素描されているに違いない形象がある」
と,その,いま描かれつつある絵を描いているその瞬間を,絵にしている,というこの絵を観ている鑑賞者も,
「鑑賞者をその視線の場に置いた瞬間に,画家の眼は鑑賞者をとらえてむりに絵のなかへ連れこみ,特権的であると同時に強制的な場所を指示したうえで,輝く可視的な形相を彼から先どりし,それを裏がえしにされた画布の近づき得ぬ表面に投射するのである。だから鑑賞者は,画家にとっては可視的だが,自分に取っては決定的に不可視的な像におきかえられてしまう。」
モデルと,同じ立ち位置に立つことで,鑑賞者は,絵の中の画家のモデルになっているかのような位置にいるのである。さらに,こう書く,
「オランダ絵画では,鏡が二重化の役割をはたすという伝統がある。つまり鏡は,絵のなかにひとたびあたえられたものを,変様され,縮小されたわめられた非現実の空間の内部で反復するわけだ。(中略)同じアトリエ,同じ画家,同じ画布が,鏡のなかに同一の空間にしたがってならべられることを期待するであろう。それは完全に模造となるはずなのである。」
そして,
「鏡のなかに映しだされているもの,それこそ,画面のあらゆる人物が視線をまっすぐに伸ばし凝視しているものにほかならない。つまり,画家のモデルとなっている人物をも含めるまで画面が手前に,すなわち,もっと下の方へ延長されれば見ることのできるはずのものなのである。けれども,それはまた,画面が画家とアトリエを見せるところで止まっているのであるから,絵が絵である限り,…絵の外部にあるものでもある。…思いがけず鏡が誰にも知られず,画家(仕事中の画家という,その表象された客観的実在性における画家)の見つめている諸形象ばかりか,画家(線や色が画面においてあの物質的実在性における画家)を見つめている諸形象をも,きらめかせている。」
絵画空間の外の、この絵を描く画家と,この絵のなかで国王夫妻を描いている画家のモデルたる,国王夫妻と,この絵の鑑賞者の立つ位置との三重の関係,それはまた,絵の中の人々が意識し,目を向けている位置でもある,
「描かれている瞬間のモデルの視線、場面を見つめている観賞者の視線、そしてその絵(表象されている絵ではなく、われわれのまえにあって、われわれがそれについて語っているところの絵)を創作している瞬間の画家の視線が,正確に重なりあう」
その位置は,画家ベラスケスの設定した,
描かれるべきものと向き合う仮設の画家,
である。本当の謎は,ここから始まるように思える。フーコーは,
絵を見つめ,あるいは制作するときの,画家と鑑賞者の空位,
と呼んでいた。この自覚的絵の,歴史的な意味をこそ,解き明かしてほしい。
参考文献;
木村泰司『謎解き西洋絵画』(洋泉社)
ミシェル・フーコー『言葉と物』(新潮社)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm