2016年03月13日

陣形


乃至政彦『戦国の陣形』を読む。

戦国の陣形.jpg


テレビや映画の合戦シーンやシミュレーションゲームに登場する「魚鱗陣」「鶴翼陣」の相性ルール等々に異和感を覚えた著者は,その理由を,

「戦国時代に長柄鎗や弓,鉄炮の兵種があったことは知っているが,兵種の性格や意義まで考えたことはあまりない」

という研究状況にある,と断じる。そして,

「『兵種とは何か』という素朴な問いかけ自体,中世軍事史ではほとんどなされてなく,兵種を考えるうえで必要不可欠であるはずの陣立・陣形についても基本的考察がない。」

そこで,「自からの手で陣形の変遷史をたどってみることにした」と。

本書は,意外とシステマチックだった律令制時代の,唐制を模倣した軍制から説き始め,武士勢力がどう陣形を考えていたかをたどる。エポックは,戦国時代である。そして大阪の陣で,終る。

陣形について,常識とされている「鶴翼」「魚鱗」について,

「中世から近世までの軍事史料を見てみると,…具体的な形状を示す同時代史料(いわゆる一次史料)に,こうした陣形の存在を裏付ける証拠がない」

という。そして,

「それらのものが登場するのは,戦国が終焉して何十年も経過した徳川時代になってから」

軍学者が言い出したものらしいのである。

「川中島で車懸りと鶴翼の衝突があり,三方ヶ原も鶴翼と魚鱗の激突図あったとされる。関ヶ原も鶴翼と魚鱗の対決だったという。」

その常識にある「鶴翼」「魚鱗」が,現実にどうであったかの根拠が薄いのである。

現実には,

「足利時代初頭,陣形はただの『言葉』でしかなかった。魚鱗の陣といえば,そういう形状があるのではなく,『魚の鱗がどういう形状だったか思い描いて,びっしり集まれ』と言う程度で,『ものの喩え』に過ぎなかったのではないか。言い換えれば『魚鱗の陣』とは『びっしり(集まれ)の陣』であり,『鶴翼の陣』も『ばっさり(広がれ)の陣』」

でしかなかったと断定する。つまり,中世の武士は,「中国にあるらしい陣形」をあいまいに認識していただけで,実形まで把握していなかったということになる。いわば,言葉だけの陣形である。

それが,戦国期,戦国大名への権力集中に伴って軍事編成の変化が現れる。『甲陽軍鑑』には,武田が初めて陣形を本格的に設計し始めたことが載る。山本勘介が,「唐の軍法」である「諸葛孔明八陣」を研究し,信玄に提案したのである。たとえば,世に知られる武田の八陣というものがあるが,著者は,それは「諸葛孔明の八陣」「李善の八陣」「長良の八陣」を折衷し,打ち出したもので,

武田八陣形.gif


「勘介は晴信(信玄)に『その方は物の本,四五冊もよみたるか』と聞かれ,『一冊も読み申さず候』と八幡宮に誓文を立てた」

と,『甲陽軍鑑』にある程度で,

「すべてが冗談のような代物」

なのである。しかし晴信は,勘介の進言を入れ,

「陣形の単純素朴なルールとシステムを作り,それぞれの部隊が定型の陣形を実用できるようにした」

という。これが,

定型に基づく,日本初の陣形,

ということになる,と著者は言う。そして,その陣形による合戦の嚆矢を,武田に追い詰められていた村上義清と信玄の,

塩田原の合戦,

である。村上勢は,総大将・信玄を負傷させたのである。村上の戦法は,

二百騎の騎馬隊(勝敗がどうあれ「晴信討つべし」との念を強める「武篇の者共」)を編成,
これに
徒歩の鎗持ちを二百人つける。そのうち百人は長柄の鑓を武装,
さらに,
足軽二百人,うち百五十人を弓隊(矢を十本ずつ所持),五十人を鉄炮隊(1人玉薬を三つずつ所持),

という計六百人の臨時編成で,武田・村上の合戦が始まると,その脇から,義清自ら上記六百余で,武田旗本に殺到させた。

「はじめに弓隊百五十人が矢を放ち,次に鉄炮隊五十人が銃撃した。矢弾が尽きるとかれら足軽二百人は抜刀して切り込みをかけた。義清自身も間髪を入れず精鋭の騎馬隊二百騎と長柄隊百人に号令をかけ,晴信に太刀打ちせんと猛進した。」

お気づきだろうか。まさに,上杉謙信と武田信玄の川中島合戦に瓜二つである。越後に遁れた村上を庇護した謙信は,信玄討ち取りに特化した旗本を編成する。

川中島合戦図.jpg

川中島合戦図屏風・左隻 八曲一双 紙本着色 岩国市指定文化財


騎馬100
長柄鎗100
弓100
鉄砲100

の編成である。

「ここに見えてくるのは,村上義清が切り開いた臨時の兵種別編成からなる五段隊形が,謙信に受け継がれて常備の戦術隊形となり,対抗する大名たちがこれを導入して,…その後畿内・西国にも伝播している。」

この隊形は,文禄の朝鮮侵略時にも,緒戦段階では威力を発揮することになる。

さて,最後にひとつ。著者は隊形と陣形の区別を指摘していたが,関ヶ原で,東軍が赤坂に着いたとき,西軍は前進したが,霧が深かったため,二万五千は迂回して,駒野に布陣,主力は関ヶ原に布陣した。しかしその途中で小早川が離反し,あっけなく勝敗が決した,

こう著者は書く。しかし,これは,隊形を言っている。陣は,史料だけでなく,構造物の遺跡などをきちんと分析すれば,西軍の陣が強固な構造物を作っていたことがはっきりしているはずである。それを考慮に入れないで論ずるのは,はなはだ陣形を論ずる著者には似つかわしくない。

参考文献;
乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書) [Kindle版]
http://iwakuni-art-museum.org/collection/special/001.html
藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社)



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posted by Toshi at 05:06| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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