累は,
かさね,
と訓む。「累」を検索すると,
松浦だるま『累 -かさね-』
という漫画が出るが,ここで言う,
累
は,怪談で有名な,
「累ヶ淵」
を指す。
累 『絵本百物語』竹原春泉画
辞書(『広辞苑』)には,こう載る。
「会談の女主人公。下総国羽生村の百姓与右衛門の妻。嫉妬深い醜婦で,夫に鬼怒川で殺害され,その怨念が一族に祟ったが,後に祐天上人の祈念で解脱したという。歌舞伎『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』『法懸松田成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』,浄瑠璃『薫樹(めいぼく)累物語』,清元『色彩間苅豆(いろもようちよつとかりまめ)』,三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』などで有名」
と。このほかに,宝井馬琴の読本『新累解脱物語』もある。
ちなみに,祐天とは,東横線の「祐天寺」駅のそれを指し,「祐天寺」は,晩年草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し,そこで没した地となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%A4%A9
には,
「祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。」
とある。その霊験の一つが,「累」ということになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AF%E3%83%B6%E6%B7%B5
には,「累」の謂れを,
「下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。」
と,辞書(『広辞苑』)より,詳しく書く。寛文十二年(1672)のことである。これを最初に取り上げたのは,『古今犬著聞集』(1684年)で,
「祐天和尚がかさねが亡魂をたすくる事」
として採録されたのが始まりで,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.html
で書いたように,もともとは,祐天の法力の霊験を説話として,浄土教(祐天は浄土僧)の布宣のためのものであったもので,他に六話,化益譚の載る,その一つの話が,以降,さまざまに翻案されて広まっていったことになる。
仏教唱導者の近世説教書(勧化(かんげ)本)
の類例といっていい。堤邦彦氏は,その背景を,
「檀家制度をはじめとする幕府の宗教統制のもとで,近世社会に草の根のような浸透を果たした当時の仏教唱導は,通俗平易なるがゆえに,前代にもまして,衆庶の心に教義に基づく生き方や倫理観などの社会通念を定着させていった。とりわけ人間の霊魂が引き起こす妖異については,説教僧の説く死生観,冥府観の強い影響がみてとれる。死者の魂の行方をめぐる宗教観念は,もはやそれと分からぬ程に民衆の心意にすりこまれ,なかば生活化した状態となっていたわけである。成仏できない怨霊の噂咄が,ごく自然なかたちで人々の間をへめぐったことは,仏教と近世社会の日常的な親縁性に起因するといってもよかろう。」
と述べていた。神仏の霊験,利益,寺社の縁起由来,高僧俗伝など,
仏教説話の俗伝化,
のひとつである。その説話の目的と興味が,
「高僧の聖なる験力や幽霊済度といった『仏教説話』の常套表現を脱却して,怨む相手の血筋を根絶やしにするまで繰り返される亡婦の復讐劇に転換するさまを遠望することになるだろう。」
それは,怪異小説に脚色され,虚構文芸の表現形式を創り出すところへとつながっていくことになる。
累の悲劇は,ちょっとした「稗史」(中国で稗官(はいかん)が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語)が,物語へと昇華されていくプロセスを垣間見させてくれるようである。稗史,つまり小説については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/432692200.html
で触れた。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AF%E3%83%B6%E6%B7%B5
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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