こういう詩がある。
このかなしみを
よしと うべなうとき
そこに たちまち ひかりがうまれる
ぜつぼうと すくいの
はかないまでの かすかなひとすじ
八木重吉の無題の詩である。『幼き歩み』に収録されているらしい。不勉強で,鈴木三重吉なら知っていたが,八木重吉の名はほとんど記憶になく,まして詩については全く知らなかった。
八木重吉については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%90%89
に詳しい。、1898年に生まれ,1927年に,
「29歳の若さで亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える」
という。どうりで若い写真しかないわけだ。
多分若書きのまま,亡くなったのだろう。詩集が出版されたのは死後のことになる。
勝手な印象でいえば,最後の二行が要らない気がする。
よしと うべなうとき
そこに たちまち ひかりがうまれる
そう書いた時,悲しんでいる自分を突き放している。すでに,悲しむ自分が,一筋の道として見えている。その意味で,悲しみは,超えている。
かなしみ
と題する詩が,谷川俊太郎にもある。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
このときも,悲しみは,既に超えられている。だから,悲しみの由来を見ている。
しかし,中原中也の,
汚れっちまった悲しみに……
は,少し違う。
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
この詩の中也のことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/414295670.html
で書いた。中也は,悲しみの堂々巡りのどつぼから出られていない。出られていない自分をみている。その分悲しみは深い,という気がする。
藤村操,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D
と言う旧制一高生が遺書として残した,
「巌頭之感」
がある。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すらしく,
There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy
(世界には哲学では思いも寄らないことがある)
らしい。ここに,悲しみは悲しみとして受け止めきれない,悲しみが見える。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163454.html
で書いたように,「悲」の字は,「哀」の字とともに,いわゆる悲しみで,
悲は,喜の反対。痛なり,
哀は,楽の反対。あわれがりて,深く悲しむ。哀悼と用いる。哀は痛みの声に現れるもの。悼は痛みの心に存する,
とある。「悲」(痛み)の声に現れるのを「哀」というとある。
つまり,悲しみは痛みに通ずるらしいのだ。藤村の遺書にあるのは,悲しみの所以を知らず,傷む心の悲鳴に見える。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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