2016年03月19日

古田織部


諏訪勝則『古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人』を読む。

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本書の口絵に,茶室『燕庵(えんなん)』の内部,が載っている。

茶室・燕庵.jpg

藪内家燕庵内部 左が相伴席、右が点前座 袖壁の下が吹き抜けている /公益財団法人藪内燕庵所蔵


そこに,

「薮内剣仲(妻は古田織部の妹)を祖とする茶道薮内流宗家に伝わる茶室,三条の客坐,台目の点前座,一畳の相伴席からなっている。三畳台目は織部好みである。織部の創意による『色紙窓』など,窓が10ヵ所あり,明かりのもたらす様々な効果を狙っている。右手に見える茶道口に竹を用いているのも,また織部好みである。」

と,記す。ちなみに,台目とは,畳一畳の四分の三の規格のことをいう,そうである。また,「三畳台目に通イ一畳付タルヲ織部格ト云也」と織部の弟子上田宗箇の上田流の茶書にはある,らしい。

筑前国博多の豪商茶人神屋宗湛が,織部の茶会に赴いた際,

「ウス茶ノ時ハセト茶碗ひみつ候也。ヘウケモノなり。」

と書いた。

「ここでの『ヘウケモノ』は,『ひずんでいる』『ひしゃげている』という意味で使用されている。」

と,著者は書き,織部の特徴を,

第一に,織部が茶の湯を伝授した弟子たちが錚々たる人物が名を連ねていること(徳川秀忠,黒田官兵衛,伊達政宗,毛利秀元,小堀遠州等々),
第二に,師の利休は商家出身だが,織部はれっきとした武将であり,信長,秀吉に仕えて,各地を転戦し,武功を挙げ,秀吉時代は,三万石を領したともされていること。一説には,秀吉が,利休相伝の茶の湯は町人の茶である,武家流,大名風に,改革せよ,と命じられたとの説もある。この大名茶の湯は,遠州流,石州流に引き継がれていく。
第三に,大坂夏の陣に際して,師利休と同じく,切腹させられていること。

と挙げる。イエズス会宣教師ロドリゲスは,『日本教会史』で,織部と目される数寄者について,

資質とすぐれた習性をもっていること,
果断で確固たる勇気をもっていること,
物事を見て,その調和を見つける判断力と鑑識眼をもっていること,
時と場合に応じて,その目的を達成するために新たな考案をすること,
大小の壺,釜,陶器,絵画について,見誤ることのない知識と,器物の等級を定める責任がある,

と記している,と言う。著者は,

「織部は師に忠実であるとともに,積極的に情報を入手し,斬新なアイデアで新たな世界を創造しようとしていたと思う。」

と書き,『利休居士伝書』の,

「数寄というは,違ってするが易のかかりなり。これ故に古織は能し。細川三斎は少しも違わで,結句それほどに名を得取り給わずという。」

の一文を引き,

「易(利休)は『数寄というのは,人と違ったことを創造するものである』と唱えた。織部はこの考え方に適合している。細川三斎はすことも教えを変えることがなかったので名を残すことができなかったと伝えている。なかなか面白い比較である。」

と。

その織部が,大坂方に内通したとの罪で,師利休同様,慶長二十年(1615)切腹させられる。

「利休の弟子と言われた山上宗二は,天正十八年(1590),秀吉の逆鱗に触れ,耳と鼻を削がれ,斬首されている。利休はその翌年に横死した。当代における茶の湯の名人と言われた三名が夜を去ったのである。」

織部の家財は没収され,名物「勢高肩衝」は徳川家のものとなった。その半年後,織部の息子重広は,「伏誅」される。つまり,惨殺されている。

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古田重然(織部)像(大阪城天守閣蔵


著者は,織豊自体を代表する文化人,利休,秀次(豊臣秀次),織部の死に共通するものとして,三人の深く広い人脈を挙げる。

「大阪の陣は,徳川政権の永続を願う家康にとって,危険因子を取り除く総決算の事業であった。
織部の弟子は,豊臣・徳川方に関係なく存在し,その繋がりの広さと深さは確たるものであった。依然として豊臣恩顧の武将とも親しかった。もちろん文化的なつながりであって,政治的なものではない。しかし徳川政権にとって,そのネットワークは排除しておくべき危険因子であったと思われる。」

その視点でみるとき,秀次,利休も,同じ視界のなかに見えてくる。

「秀次は文化の庇護者として,公家社会や五山(臨済宗の頂点に立つ諸寺院)と深い繋がりをもっていた。…秀次は特に五山に対して,経済的に扶助し和漢聯句会の開催を支援するなど,五山文学の復興を企図し,掌握下に置いていた。幼いお拾(秀頼)に豊臣家を託したい秀吉にとって,秀次が築いたネットワークは潜在的な脅威であった。」

利休は,大友宗麟が,豊臣秀長から,

「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」

と耳打ちされたほど,政権中枢にいた。しかし,天正十九年(1591)に秀長が病死し,そのバランスが崩れ,翌二月,切腹させられる。

「利休。秀次の追放を目の当たりにしてきた織部は,権力者によって葬り去られる運命を覚悟していたのではなかろうか。」

と,締めくくる。

参考文献;
諏訪勝則『古田織部 - 美の革命を起こした武家茶人』 (中公新書)
http://www.yabunouchi-ennan.or.jp/pc/contents25.html
http://www.kyobunka.or.jp/tearoom/part_01/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6


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posted by Toshi at 05:46| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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