江戸前とは,辞書(『広辞苑』)によると,
「芝・品川など『江戸前面の海』の意で,ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのにはじまる。鰻は浅草川・深川産のものをさす」
と注記して,
江戸湾付近で捕れる魚類の称,
江戸風,
に二つの意味を載せる。しかし,さまざまの解釈があるようで,ざっとひろっても,
『ブリタニカ国際大百科事典 』は,
「江戸すなわち東京風の料理をいう。江戸の近海でとれた魚を江戸前といい,鮮度の高いことを自慢したところから出た。のちにこれが江戸風の料理の意に転じた。」
『デジタル大辞泉』
1 《江戸の前の海の意》江戸の近海。特に、芝・品川付近の海をさす。
2 江戸湾(東京湾)でとれる新鮮な魚類。銚子・九十九里浜産と区別していった。
3 人の性質や食物の風味などが江戸の流儀であること。江戸風。江戸好み。
『百科事典マイペディア』
「もとは〈江戸の前面の海〉の意で,そこで捕れる新鮮な魚をいった。転じて生きのいい江戸風の事物一般をもさすようになり,とりわけ浅草川や深川などで捕れるウナギに〈江戸前〉の名をあてていた。」
『世界大百科事典 第2版』
「江戸の目の前の場所の意で,ふつう東京湾内奥のその海でとれた新鮮な魚類をいい,転じて,生きのよい江戸風の事物をいうようになった。現在では握りずしの種の鮮度を誇示する語として,もっぱらすし屋がこれを用いている。しかし,《物類称呼》(1775)には〈江戸にては,浅草川,深川辺の産を江戸前とよびて賞す,他所より出すを旅うなぎと云〉とあり,《江戸買物独案内》(1824)を見ると,江戸前,江戸名物などととなえているのはすべてウナギ屋で,すし屋はほとんどが御膳と称している。」
『日本大百科全書(ニッポニカ)』
「このことばの使い方は広く、時代により内容も異なる。江戸中期から使われていることばであるが、江戸の海の魚貝類に対しての特称としての用い方よりは、ウナギに対して用いたほうが古く、また江戸後期でもだいたいそのほうに重点があった。宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に出された『風流志道軒伝(しどうけんでん)』には、『厭離(えんり)江戸前大樺焼(おおかばやき)』ということばが出ている。また江戸末期に、京都の文人であり、芝居の狂言作者でもある西沢一鳳(いっぽう)が、江戸にきて、江戸の人と話をしていたおり、江戸前ということばが出た。関西人の一鳳にはその場所が明らかでないので問いただすと、江戸前とは大川の西、お城の東という説明をされたという。いまの築地(つきじ)から鉄砲洲(てっぽうず)にかけての地区であり、そこでとれたウナギを江戸前といっていたのである。当時ウナギの蒲焼(かばや)き屋が現在の銀座4丁目付近に多かったのは、ウナギの漁場が近かったためであろう。江戸時代の錦絵(にしきえ)に出ている蒲焼き屋の有名店には、行灯(あんどん)や看板に単に『江戸前』としか書いてないが、一般店は江戸前と肩書きし、大蒲焼きと書いてある。要するに江戸時代末のころでも、江戸前とはウナギの意としての用い方に比重が大きくかかっていたとみられる。
また1801年(享和1)に刊行された『比翼衆』には『かれいとくろだいがござります』『そりゃ江戸前だろう』ということばが出てくるように、芝浦、品川あたりの江戸の海の魚貝類を江戸前といったこともある。なお、当時江戸前のことばの意味は、味のいい意も含むが、鮮度のいい意も多く含まれ、江戸前のウナギに対して、埼玉県草加(そうか)あたりから持ってくるものを「旅の物」と称していた。江戸前のことばは明治以降あまり用いられなくなったが、大正の中ごろすし屋が東京近海の魚を用いている意で使い始め、ふたたび使われてきた。その表現する海域は、東京中心に、比較的広い範囲の意になっている。』
因みに,三田村鳶魚は,『江戸ッ子』で,江戸前を,もっと具体的に,
「両国から永代までの間,お城の前面」
と言い切り,文化・文政頃に,本所・深川まではいる,という言い方をしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D
では,
「江戸前の海は、江戸の前の海の意で、江戸の沿岸の品川沖から葛西沖あたりまでの海域を指した。江戸前は、海域ではなく漁場を示す言葉であり、江戸城の前の漁場のことで江戸時代に存在していた『江戸前島』もしくは『佃島』周辺を指していた。」
とする。
どうやら,鰻のことが「江戸前」の中心になっているが,三田村鳶魚は,
魚河岸(「江戸名所図会」)
「江戸前鰺,中(ちう)ぶくろと云,随一の名産なり,惣じて鯛,平目にかぎらず,江戸前にて漁(あさ)るを前の魚と称して,諸魚共に佳品也」
と,『続江戸砂子』を引用し,
「この『江戸前』という言葉は,鰺からきているので,『武(む)玉川』にも,
江戸前売りの江戸と云ふ面
というのがある。この『江戸前売』というのが『江戸前』という言葉の早いもののように思われます。それがやがて鰻になって,江戸前鰻といって,江戸の名物になっている。しかしこれは江戸前で捕れるんじゃない。千住や尾久の方で捕れるのを,江戸前鰻といっている。そんなら地回り鰻と言いそうなものだが,江戸前鰻で済ましている。そのほかから来るのは,旅鰻という。」
と,「ジャポニカ」とは異説を立てている。どうやら,三田村鳶魚に軍配が上がりそうにみえる。鳶魚は,こう付け加えているのである。
「江戸前ということを気の利いたことのように思っているが,そうじゃない。芝浦で捕れたということなのです。これも実は芝浦で捕れはしないが,それを扱うのが新場なので,新場というものの景気は,江戸前の魚を商うということが何よりであった。」
つまり,「江戸前」はブランドなのである。その意味では,
http://homepage3.nifty.com/shokubun/edomae.html
で,
「『江戸前面の海』のほうですが、たとえば千葉県の銚子から利根川を昇り、関宿(せきやど)廻りで江戸川へ。そこから新川、小名木川を経て日本橋まで約200キロ、三日はかかります。もっと速いルートもありましたが、やはり刺身は無理な距離。保存魚はともかく,生ものは駄目ですね。そこで、人口の増大につれ手近かな江戸前の魚が重要になってきます。売るにしても食べるにしても、冬と夏で、また海からの距離で違ってきます。魚方面の江戸前とは、場所や海の名前ではなく『鮮魚流通の時間・距離のこと』というのが、今回の筆者の主張なのであります。」
という主張は,意味があるのかもしれない。
因みに,新場は,
http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=200
に,
「現在の日本橋室町や本町あたりに魚河岸がありました。江戸湾など近海で獲られた鮮魚がここに集まり、棒手振(ぼてふり)などを通して江戸の人々に食されたのです。本船町・安針町・長浜町といった日本橋から江戸橋までの日本橋川北岸一帯が日本橋魚市で、南岸の四日市町には塩魚や干魚を扱う塩魚問屋があり、本材木町には『新場』とよばれる魚市場がありました。その賑わいは江戸の名所として多くの浮世絵に取り上げられています。」
とあるが,鳶魚は,
本小田原町,本船町,按針町,長濱町,室町にわたっていたのが魚河岸,
で,寛永期からここにあった。新場(しんば)というのは,
「延宝年中に相模の浜方と申し合って,京都商人が資本を出し,それで木材木町の方へ別れた」
もので,小田原町は,房総二カ国と,もう少し遠海もの,新場は,豆相(伊豆・相模)二ヵ国と近海ものを扱う。つまり,すべてが,「江戸前」ではない。だから,
江戸前,
は,
近海と生きの良さ,
を標榜するブランドなのである。鳶魚が,
「実は芝浦で捕れはしないが,それを扱うのが新場なので,新場というものの景気は,江戸前の魚を商うということが何よりであった。」
とは,その意味である。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D
http://homepage3.nifty.com/shokubun/edomae.html
http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=200
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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