2016年04月01日
なぐれの端
江戸っ子の由来を語るところで,三田村鳶魚は,
「早いところで、頼朝が鎌倉に覇業を興したのも、尊氏が京都へ攻め上って室町幕府を拵えたのも、皆坂東武者が全日本を圧倒したのであって、坂東武者の骨ッ節のお陰であった。北条早雲が上方から関東へ出て来て,関八州を取って、上方を威嚇していたというのも、また坂東武者の力でありました。…秀吉 が関東の城々を攻め破ってしまったので、統帥というものがなく、団結というものがなくなって、纏まった権力や資力からは離れてしまったが、それはやがて土豪となり、土 族となり、泥坊となり、博徒となって残ってきた。 そのなぐれの端が江戸ッ子である。」
と,鼻っ柱の強い,江戸っ子の気風を,まあ,漫談ふうに披瀝している一節で,その下地がある,と言いたいらしいのだが,
「けれども、たいしたことは無論出来ないが、上の威光、すなわち、政府に対し、また、大名・旗本、その他身分の上な者に対しても、鼻ッ張りが強いというわけにもゆかない。」
と,しかし,さすが,鳶魚,見るべきものは見ている。
ところで,本題は,そこではない。かつては坂東武者として名を成した,
「そのなぐれの端が江戸ッ子」
という,
なぐれ,
が気になった。辞書(『広辞苑』)には,
「ナグレルの連用形から」
と付記して,
横にそれること,
使い終わって不用になったもの,売れ残り,なぐれもの,
なぐら(海上の風がおさまったあともなお高く立っている波。なごろ。),
とある。「なぐれもの」とは,
売れ残った者,
の意から,そのメタファで,
身を持ち崩したもの,
落ちぶれた者,
という意になっている。どうも,
成れの果て,
というのが,意味が近い気がする。成れの果ては,語源的には,
「成るの連用形+の+果て」
で,成ってしまった果て,の意。
惨めで落ちぶれた姿,
を言う。『大言海』は,
「為(なり)の果ての訛か」
と書く。いずれも,「なる」と訓むが,「成」「為」では,微妙に違う。漢字「成」の字は,
「丁は,打ってまとめ固める意を含み,打の原字。成は,『戈(ほこ)+音符丁』で,まとめ上げる意を含む。」
とある。だから,
つくろうとしたものが,しあがる,
なしとげる,
変化してある状態になる,
という意味になる。「爲(為)」の字は,
「爲の原字は,象を手名づけて調教するさま。人手を加えて,うまく仕上げるの意。転じて,作為を加える→するの意となる。また原形をかえて何かになるとの意を加えた。」
とある。「する」「なす」のという意味の違いは,
「為」は,事をするなり,
「成」「就」は,為したることをしとぐるなり,
「作」は,為なり,はじめつくる義,
と区別する。そうすると,「為」「成」の差は,「行為」の方に焦点を当てるか,し遂げた結果に焦点を当てるか,の違いなのだろうか。
「成り果て」について,『古語辞典』には,
すっかり終る,
もはやこれまでという状態になる,すっかりだめになる,
と,「時の経過の結果として,よくない状態になるの意にいうのが普通」として,
すっかり~になる,
と,
すっかりおちぶれてしまう,
の意味を載せる。どうやら,成れの果ては,
どん詰まりの状態,
というニュアンスがある。その意味では,
結果として売れ残った,
というニュアンスの「なぐれの端」と,似てなくもないが,売れ残りとは,
はじき出された,
とか
はぐれた,
というニュアンスがある。つまり,
はぐれもの,
である。それは,成れの果てとは言わない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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