エドワード・O・ウィルソン『人類はどこから来て,どこへ行くのか』を読む。
著者は,「プロローグ」で,フランスの画家ポール・ゴーギャンの話から始め,有名な,『我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』に触れるところから始める。
ポール・ゴーギャン「我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか」(ボストン美術館)
(絵の左上にはフランス語で D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous と題名が書かれ、右上には P. Gauguin 1897 と署名および年が書かれている。)
(絵の左上にはフランス語で D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous と題名が書かれ、右上には P. Gauguin 1897 と署名および年が書かれている。)
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか
その絵は,答ではない。問いなのである。」
と本書を書き始め,本書の掉尾を,
「ポール・ゴーギャン様,あなたについて質問ですが,なぜ絵にあの三行を書いたのですか?もちろん,私が思うに,タヒチのパノラマに描いた幅広い人間活動の象徴化についてはっきり伝えたかったから,という答えがすぐに返ってくるでしょう。万が一,その点を見落とす人がいるといけませんから。でも私には,それ以上の意図があるような気がします。もしかして,あなたが拒絶してあとにした文明社会にも,安らぎを見つけるために選んだ原始的な世界にも答えがないことを匂わせる一手として,三つの問いを発したのではないでしょうか。あるいはまた,芸術にできることはあなたのしたことが精一杯で,だからもうあの悩ましい問いを手書きで表現することしか自分にはできないと言いたかったのかもしれませんね。さらにもうひとつ,あなたがわれわれにあの謎を残した理由として,ここまでの推測と必ずしも矛盾しないものを提示させてください。あなたが書いた言葉は,勝利の叫びだと思います。あなたは遠くへ旅をしたい,視覚芸術の斬新なスタイルを見つけて採り入れたい,あの問いをこれまでにないやり方で発したい,またそうしたすべてのことから真に独創的な作品を生み出したいという情熱を実現しました。この意味で,あなたの画家としての生涯は,世代を超えた価値があります。無駄に費やされたのではありません。われわれの時代では,合理的な分析と芸術を結びつけ,自然科学と人文科学を協力させることによって,あなたが求めた答に迫っています。」
と,それへの答で締めくくっている。そう,その現代の答が,本書なのだということになる。
本書は,ゴーギャンの問い,
われわれはどこから来たか?
われわれは何者か?
われわれはどこに行くのか?
に答えるように展開するが,ただ人類発祥からの歴史をなぞっただけではない。それだけなら,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419871878.html
で触れたように,ヒト族について書かれた本は無数にある。本書の特色は,
真社会性,
に焦点を当てたことだ。つまり,
「グループのメンバーが複数の世代で構成され,分業の一環として利他的行為に及ぶ」
アリやシロアリといった社会性昆虫と対比しつつ,(社会性昆虫であるシロアリは二億二千万年前,アリは一億五千万年前,ミツバチは七,八千年前なのに)わずか数十万年前に現れ,世界に拡散(出アフリカ)したのは六万年前にすぎないホモ・サピエンスの進化の謎に迫っている。
動物界の社会的行動には,「原因と結果によって結びつけられるふたつの現象」がある,として,
「第一の現象は,陸上環境の動物は最高に複雑な社会システムをもつ種に支配される,…。第二の現象は,そうした種が進化の歴史でまれにしか生れ出なかった…。」
と挙げ,ホモ・サピエンスは,
「何百万年にもわたる進化で数多くの準備段階を経て世に現れた」
ひとつである,と。たとえば,
「これまでに知られている二万種の真社会性昆虫は,ほとんどがアリやシロアリ,ハナバチ,狩りバチだが,およそ100万種に及ぶ既知の昆虫の二%に過ぎない。それでもこの小さなマイノリティが,数と,重量と,環境への影響という点で,他の昆虫を支配している。」
そして,
「アリとヒトは地上の世界のいわば二大覇権国家を代表している。違いは,アリやシロアリが自分たちの欲しいものをすべて一億年以内に手に入れ,ヒトがだんだん進化をとげ,ついに真社会性のレベルに達するまで世界は彼らの独壇場だった…」
のである。しかも,現時点でも,
「私は(非常に)大ざっぱにだが,現在生きているアリの数を,最も近い累乗のオーダーで,10の十乗すなわち,一京と見積もっている。平均的に見て,アリ一匹ヒト一人の百万分の一の重さだとすれば,アリの数はヒトの数…の百万倍なので,地球上に棲むすべてのアリの重さは,すべてのヒトの重さとおおよそ等しい。」
と。しかし,
「真社会性の獲得ほど重大な出来事が大型動物で起きる機会は,過去二億五千万年のうちでたくさんあった。(中略)それでも世界の霊長類以外の哺乳類ではデバネズミだけが,また熱帯から亜熱帯地域に数百万年暮らしてきた霊長類種ではただひとつ,ホモ・サピエンスの祖先であるアフリカの大型類人猿の一派が,真社会性への敷居をまたいだのである。」
では,ヒトだけが,その進化の鍵となる,真社会性をどうやって手に入れることができたのか。
真社会性誕生には,二つの段階があった,と,真社会性昆虫を例に,著者は書く。
「第一に,真社会性を獲得した動物種のすべて―例外は知られていない―で,利他的な協力が,長く使われて防御できるように作られた巣を,捕食者であれ,寄生者であれ,競合者であれ,とにかく敵から守る。第二に,この段階が達成されると,グループのメンバーが複数の世代をもち,グループの利益のために個体の利益の少なくとも一部を犠牲にするような形で分業をおこなうようにして,真社会性の準備が整った。」
たとえば,単独生のハナバチを無理やり一つの狭い部屋に押し込めると,
「ハナバチのペアは,自然界における原始的な真社会性のハナバチに見られるような序列を,自然に形成する。優位の雌である『女王』は巣にとどまり,生殖と巣の護衛をする一方,下位の雄である『ワーカー』は食料をあさる」
という自己組織化をする。そして,
「自然界では,同じ仕組みを遺伝的にプログラミングでき,母親の昆虫を巣に残る子が取り巻く結果,母親が女王となり,子がワーカーとなる。最後のステップをクリアするのに必要なただひとつの遺伝的変化は,一個の対立遺伝子―新しいタイプの単一遺伝子―の獲得であり,これによって移動分散するための脳のプログラムは働かなくなり,母親と子は新しい巣を作りに移動することがなくなる。
そんな結びつきの強いグループが現れると,そのグループのレベルで働く自然選択が始まる。つまり,繁殖できるグループに属する個体は,同じ環境でそれ以外の点ではそっくり同じである単独生の個体に比べ,うまくできたりできなかったりするのだ。結果を決めるのは,グループのメンバー同士の交わりによって発現する形質である。そうした形質には,勢力拡大にあたって協力する,巣を守り大きくする,食料を獲得する,未熟な子を育てるなどがあり,言い換えれば,このすべての行為を,単独生で生殖する昆虫は本来自分ひとりでおこなうことになる。
グループに発現するこうした形質を指定する対立遺伝子が,巣から個体が移動分散するように指定する対立遺伝子を圧倒したら,ゲノムの残りの部分に対する自然選択が始まり,より複雑な形態の社会組織が生み出される。」
これは,
「真社会性の種における分業の発生を説明する『固定閾値』モデルと合致する。」
という。それは,
「個体間の遺伝子に由来したりしなかったりするバリエーションが,特定のタスクにかかわる仕事の引き金を引くために必要な刺激の量にあらわれるとするものだ。二個体以上のアリやハチが,まだだれも手がけていない同じタスクに遭遇したら,刺激の量が少ない個体が最初に仕事をし出す。すると他の仲間は阻害され,何であれまだ手がけられていないタスクのほうへ移りやすくなる。」
というもので,
「神経系にたったひとつの変化―この場合は実質的にフレキシブルな結果をもたらす一個の対立遺伝子の置換による―が生じただけで,前適応した種が真社会性への敷居をまたげるようになる」
とする。ここで,著者は,40年来学界の主流である,
血縁選択説,
といわれる「包括的適応度の理論」を,「数学的にも生物学的にも間違っている」と,決然と異論を,述べている。
「(血縁選択説の)基本的な問題のひとつは,母親たる女王と子どものあいだの分業を『協力』,子どもが母親の巣から移動分散することを『離反』と見なしている点だ。これに対しわれわれ(著者とマーティン・ノヴァック,コリーナ・タルニタ)は,グループへの忠実さと分業は進化のゲームではないと指摘した。ワーカーはゲームのプレーヤーではない。真社会性が確立しても,ワーカーは女王の表現型の延長,つまり,女王自身の遺伝子と生殖相手となる雄の遺伝子が交互に発現したものなのだ。(中略)
この認識が正しければ,また論理的で証拠と合致していると私は思うのだが,真社会性昆虫の誕生と進化は,個体レベルの自然選択に突き動かされたプロセスと見なせる。」
そして,こう言い切る。
「必要な条件がすべて揃えば―つまり,しかるべき前真社会性(真社会性の前段階)の特徴を備え,集団内にきわめて低レベルではあっても真社会性の対立遺伝子が存在し,さらには集団での活動に有利となる環境的圧力も存在すれば―単独生の種は真社会性への敷居をまたぐことになる。この進化の段階で意外な点は,…既存の行動をやめさせ,それによって巣から親や成長した子が移動分散するのを押しとどめるだけでいい。(中略)
真社会性と,われわれが利他行動と呼びたがるものは,親がすでに巣を作り,わが子に餌を与えるようになっていれば,ひとつかひと組の対立遺伝子(遺伝子のタイプ)のフレキシブルな発現によって誕生しうる。唯一必要なのは,グループの形質に対して働くグループ選択で,これが巣にいる家族にも有利に働く。すると,生態系への支配に向けた歩みが始まり,生物の新しいレベルの組織に到達する。これは,新たに造られたワーカー階級を従えるひとりの女王にとっては小さな一歩だが,昆虫にとっては大きな飛躍なのだ。」
この仮説を展開する,18,19章はなかなか読みごたえがある。そこで,著者は,高度な真社会性へと進化する移行モデルを次のように整理して見せる。
第一段階は,利他的であるように分業をともないながら,他の点では単独生と言える個体が自由に混じり合う集団のなかに複数のグループが形成される。
「家族によるグループの形成は,真社会性の対立遺伝子の拡大を加速することがあるが,それだけで高度な社会的行動へ導きはしない。高度な社会的行動をもたらす要因は,防御可能な巣,特に作るのにコストがかかり,持続可能な食糧源の近くにある巣をもつという利点だ。昆虫ではこれが最初の要件なので,原始的コロニーの形成において,遺伝的近縁性は真社会性の行動の結果であって,原因ではない。」
第二段階は,真社会性への変化を起こしやすくする他の形質が偶然蓄積する。
「たとえば一部の種は,比較的捕食者がいない生息環境に棲むようになるかもしれない。すると子を守る必要が差し迫ったものではなくなり,彼らは社会進化の点で安定しやすくなったり,進化の道筋をすっかりはずれて単独生の生活になりやすかったりする。一方で別の一部の種は,危険な捕食者の多い生息環境では,真社会性の敷居に近づき,越えやすくなる。」
第三段階は,変異か外から変異した個体が入ってくることによる,真社会性の対立遺伝子が誕生する。
「少なくとも前適応した膜翅類(ハナバチや狩りバチ)の場合,この現象は単一の点突然変異で起こりうる。さらに,新しい行動の完成をもたらすのに変異は必要ではない。古い行動を取り消すだけでいいのだ。真社会性への敷居を越えるには,雌とその成熟した子が移動分散して新たな個々の巣を創始しないことが求められる。」
第四段階は,コロニーにメンバー間の相互作用によって新たな形質のみを対象とするグループ選択が進む。
「その選択の力が,きっと警戒音や化学的なシグナルによる警報システムを生み出すのだろう。そうした種は,自分達のコロニーと他のコロニーを区別するために,自分たちの体のにおいを作り出す。」
第五の段階は,コロニー間のグループ選択が,さらに高度な真社会性の種のライフサイクルや階級制度を形成する。
「最後のふたつの段階が昆虫などの無脊椎動物でしか起きないことを考えると,ヒトはどうやってみずからのユニークで文化にもとづく社会的条件に到達したのだろうか?」
と,ここまでが「われわれはどこから来たのか」への答だとすると,ここからが,「われわれは何者か」への解答となる。しかし,ここは,既に,文化的,言語的に,かなり議論が尽くされてきている部分でもある。著者は,その背景となる「社会的知能」について,
「第一に,…いろいろなできごとが起きている際に,他者と同じ対象に関心を払う傾向をもつようになった…。第二に,共通の目標を達成しようとして(またはそれを企てる他者を妨害しようとして)協働するのに必要な高レベルの意識を獲得した。そして第三に『心の理論』,すなわち自分の心の状態を他者も共有できるという認識を手に入れた。」
この進歩を出アフリカ以前に手に入れた,と。この後,文化,言語,倫理,宗教と,人間としての特性をフォローし,「われわれはどこへ行くか(どこへ向かうべきでないか)」について,
「人類は地球で孤独であり,それゆえ人類はひとつの種として我々の行動に全責任を負っている」
として,こう締めくくる。
「地球二二世紀になるまでには,われわれが望めば,人類にとって永遠の楽園になるか,少なくともその力強い兆しを見せうる。」
と。それがなるかならぬか,我々にかかっている,と言いたげである。
さて,本書は,主流の「血縁選択」(著者は,自説を「マルチレベルの自然選択」と呼んでいる)への批判で成り立っている。著者は,その理論は,
「多数の競合する仮説を考慮していない」
と鋭く批判している。ところが,本書の巻末で解説している巌佐庸(九州大学大学院理学研究院)教授は,
「血縁淘汰の否定は私には受け入れられない」
という立場から,著者の主張を,
「人を惑わす言説」
といい,「血縁淘汰によってなされている…と考えるべきだ」と,まるで,異端審問官のような口ぶりであり,素人の僕には是非を判断することはできないにしても,「血縁淘汰」説も,著者の説も,アインシュタインの相対性理論がそうであるように,真理ではなく,仮説にすぎないということを忘れて,血迷っているとしか言いようのない口ぶりには,開いた口がふさがらない。
参考文献;
エドワード・O. ウィルソン『人類はどこから来て,どこへ行くのか』(化学同人)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm