2016年04月19日

中世論


渡辺京二『 日本近世の起源』を読む。

日本近世の起源.jpg


誠に失礼ながら,本書を読んで,間違った使い方かもしれないが,思い浮かんだのは,

道を聞きて塗(みち)に説くは,これ徳を棄つるなり,

という『論語』の一節である。戦後左派歴史学者や網野善彦氏らへの罵詈雑言は,途中で本を投げ出したくなるほど読むに堪えず,その論拠は,しかし,近年の藤木久志氏らの戦国史の研究であり,さらに言えば,世評高いらしい,著者の,

『逝きし世の面影』

で示しているらしい,

徳川の平和(これに,「パックス・トクガワーナ」とルビを振っている),

を前提とするための中世論であるらしく,とりわけ,中世の,

自由だの,
自主独立だの,

というのが目障りだっただけなのではないか,と勘繰りたくなる。で思い立したのは,この著者が,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163207.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163449.html

の横井小楠で触れたように,著者は,神風連の生みの親,林櫻園と対比して,小楠をこう批判している。

「国民攘夷戦争(幕末の攘夷熱のときに決戦を唱えた)の主張から全人間界の出来事の放棄(晩年厭世的になり神事に専念するようになる)にいたる櫻園の思想的道すじは,彼がヨーロッパ文明の圧倒的な侵蝕力を鋭く感知し,この異種文明との出会いがわが国の伝統的文明を運命的に脅かさずにはいないことを見抜いていたところから,生まれたもののように見える。たとえば開国論者横井小楠には,『堯舜孔子の道を明らかにし/西洋器械の術を尽くさば/なんぞ富国に止まらん/なんぞ強兵に止まらん/大義を四海に布かんのみ』という有名な詩があるが,櫻園にいわせればこれはとほうもない誇大妄想というものであったろう。ヨーロッパ文明との接触はそれから『器械の術』だけをいただけばいいようなものではなく,小楠にとっての『大義』すなわち『堯舜孔子の道』を必然的に崩壊させずにすまぬことであることを,彼はおそら洞察していた。」

このとき櫻園をかように持ち上げる都合上,「とほうもない夢想家」小楠は格好の餌であった。いま本書では,

徳川の平和(パックス・トクガワーナ),

を唱導する都合上,中世に自由や安寧があってはならない,というようにしか,僻目でしかないかもしれないが,思えてならない。だから,最後で,こう書く,

「十六世紀という大転換のあの流血と騒乱は,もともと徳川の平和(パックス・トクガワーナ)をあがなうためのものだったと考えるしかあるまい。徳川の平和は武装した幕藩領主の連合によって実現した。しかしそれはいったん成立するや,武家社会の『兵営』的性格を骨抜きにし,あげくは払拭するような方向性を当初から備えていたというべきである。」

しかし,その論拠は,続いて引用する尾藤正英氏の仮説(『江戸時代とはなにか』)に基づく。

「秀吉や家康らの支配に人々が服従したのは,その指導のもとに形成された新しい秩序が,むしろ好ましいものとして受け入れられたからこそであろう。そうでなく,もしそれが権力による一方的な抑圧や共生の結果であったとすれば,そののちの二七〇年間にわたって国内の平和が維持されたという事実を,どのようにして合理的に説明することができるのであろうか」

こう言うに値する論拠があって言っているのであろう。しかし,それは,仮説である。突っ込もうと思えば一杯ある。「人々」で括れるものか,とか,「好ましてものとして受け入れられた」って何,とか,まあ,時代の変化を反映するので,それはそれでいいとして,それを仮説であるにもかかわらず,

「徳川の平和は,…十八世紀に確立して十九世紀を通じて存続した日本の前近代文明が成り立つための前提条件」

とまで言い切るのは,昨今の自画自賛の魁として,一種気持ちの悪さがつきまとう。だから,その前の中世は,混乱と騒擾の世界でなくてはならない,というように,最後をこう締めくくる。

「徳川期の社会は,今日極相にまで到達した近代を批判的に照らし出す豊かな啓示にみちている。そのような社会を可能ならしめた国家機構,さらにはそこに花咲いた文化は,批判以前にまず理解すべきものとしてわれわれの眼前に在る。…私はそのような語義通りにユニークな一文明が出現するまでの苛烈な道程を,従来の市民主義史学ないし左翼史学と全く反する視点で,しかし何人かの秀れた史家の助けを借りて読み解いてみようとしたにすぎない。」

ここに本書の意図が明確に示されている。つまり,先に結論ありきなのである。学問に右翼左翼は関係ない,その仮説が,どれだけ視界を開くに値するすぐれた仮説かどうか,というだけだ。それは,いずれ,検証の中で消えていく。罵倒すべきものではなく,検証によって乗り越えていくべきものではあるまいか。ある意味,著者自身がイデオロギーというものに,強い近親憎悪を懐き,別の意味のイデオロギーにとらわれているとしか思えない。

しかし,著者が引用しまくってくれることで,おかけで,ある意味,中世研究の最前線を総覧させていただくことになった。僕には,その意味で,

第二章 武装し自立する惣村
第五章 自力救済の世界
第七章 侍に成り上がる百姓

が,面白かった。惣村の力の背景には,中世の農業生産力があるのではないか,という気がするが,反イデオロギー(多く=反マルクス主義)というイデオロギーにとらわれている著者は,その辺りを完全にスルーしていて,なぜ農民が力を持ってきたのかは,本書からは読めない。

荘園制を内部から打ち崩していく流れを,勝俣鎮夫氏や黒川直則氏らの研究をもとに,こうまとめる。

「新しい共同体としての村落,いわゆる惣村は,惣有財産,惣掟(村法),あるいは自検断の存在と,年貢の村請の成立によってであり,(中略)村請とは,荘園領主が検注帳にもとづいて農民を個別直接的に把握し,毎年実検を行って年貢・課役を決定・徴収する従来のシステムに代わって,村が領主と起請契約して,一定額の年貢・課役の納入に責任をもつシステムである。したがって,…未進の追及や減免措置…(は)村請においては村を対象として行われ,未進の場合は領主は村の責任者を追及することになる。…
 このシステムの画期的な意義は,…領主対個別農民の関係が領主対村の関係に変化したことになる。」

こうした惣村の力は,そのまま惣村の指導者層の力の背景になっていく。

「中世後期から近世への大転換を主導したのは,百姓地下衆の上層部,すなわち荘園公領的集落の名主層,いいかえれば惣村の指導者たる長百姓の動向だった。中世の社会身分は,聖俗の貴族を別とすると侍と凡下にわかれる。近世武家社会支配を実現した武士階級は,中世の侍身分だったのではない。彼らは中世の凡下,すなわち百姓地下衆だったものが朝尾直弘の表現を借りると,侍に成り上がったのである。」

この象徴は,秀吉である。

「徳川幕藩体制は秀吉の遺業のうえに成り立っている。その秀吉が尾張の平百姓の出で,草履取りという雑兵として閲歴の一歩を踏み出したことの意味は重大であるはずだ。宣教師カブラルが『百姓でも内心王たらんとおもわないようなものは一人もおらず,機会次第そうなろうとする』と言うのは,…当時の民心の一斑を察するに足る。…秀吉を好例とするように百姓が武将に成り上がったとしても,彼をその一員として迎い入れた武士団は土地領主としての長い伝統をもっている。…百姓の『身分変更闘争』としての武士化は,彼自身が伝統的武士団のイデオロギーに同化することでもあった。しかし,この場合肝心なのは,織豊武士団と伝統的武士団との異質さにあるだろう。頼朝や尊氏は源氏の棟梁であるからこそ,武士たちから主人としてあおがれた。ところが織豊武士団は,尾張の一平百姓であったものをおのれの棟梁に戴くことに,何の違和感も感じなかったのである。
 つまり織豊武士団は…百姓を組織した軍隊だった。単に雑兵が百姓だったというばかりではない。将校クラスの武士から,軍団の長たる大名にいたるまで,百姓から成り上がった者は珍しくもなんともなかったのだ。惣村は中世後期に至って,数々のきびしい軍事的経験を積んできた。その期間は優に二百年にわたっている。…惣村の武力を把握できるかどうかは,すでに戦国大名時代から興亡の鍵をにぎる重大事だったのである。」

こうして,日本中世を掘り下げていくと,意外と,我が国の中世とヨーロッパ中世との同時代性が炙り出されてくる。そして,本書の著者の主張とは異なり,あらためて,和辻哲郎が,『鎖国』で嘆いていたように,著者渡辺京二の賛美する,

徳川の平和(パックス・トクガワーナ)

という三百年にわたる自己完結した閉鎖性の中で,せっかくもっていた世界との同時代性を失い,ヨーロッパのもつ,

世界的視圏,

という

視界の幅と奥行き,
視線の射程,

をついにもてない(ままだ),とつくづく思う。

参考文献;
渡辺京二『日本近世の起源』 (新書y)
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)
和辻哲郎『鎖国』(岩波文庫)


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posted by Toshi at 05:07| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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