2016年04月21日
江戸っ子
三田村鳶魚『江戸ッ子』を読む。
まずは,鳶魚は,「江戸ッ子」と表記する。これについて,
「江戸ッ子ということ、これは江戸子ではいけないので、どうしても『ッ』の字が中に割り込んでいないと具合が悪い。東京(とうけい)ッ子でもいけない。鶏が鳴くように聞えるからいけないのじゃないので、江戸を背負って生れた若い者、という意味にならないからです。」
という。ついでながら,これに続いて,「東京」の訓み方について,こう書く。
「明治のはじまりには、トウキョウとは申さないで、トウケイと申しました。」
なぜなら,
「これはどういうわけでそうなったのか、この心持はどういうものかと申しますと、西京と並ぶのが厭だったのです。 西京がもとから向うにありまして、サイキョウというところから、こっちはわざとトウケイといった。あっちではケイとは申しません。そのキョウを嫌って、ケイと申しました。西キョウに東キョウでなく、西キョウに東ケイという。」
と,何だか,「江戸ッ子」のような意地っ張りに聞こえる。しかし,「江戸ッ子」というのは一筋縄ではいかない。鳶魚に言わせると,「江戸ッ子」は,
「表通りには住んで いない。皆裏通りに住んでいた」
つまりは,
裏店(うらだな),
に棲む。では,裏店とは何か。鳶魚曰く,
長屋と裏店とは違う,
という。
「長屋というのは建てつらねた家ですから、どんな場所にもあった。 水戸様の百間長屋などというのは、今の砲兵工廠の所にあったので、その他大名衆の本邸には、囲いのようにお長屋というものがあって、そこに、勤番士もおれば、定府の者もおりました。長屋の方は、建て方からきている名称ですが、裏店の方は、位置からきている名称」
で,位置とは,場所を指す。
「裏店というのは、商売の出来ない場所」
で,ここに住んでいるのは,
「日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない。」
では,裏店に対して,表店とは何か。そのためには,町人とは何かが,はっきりしなくてはならない。
「町人という言葉から考えますと、武家の住っている屋敷地に居らぬ人、市街地に住んでいる人を、すべて言いそうなものなのに、町人といえ ば商人に限るようになっている 」
のであって,そこには,裏店の人間は入らない。
「都会の自治制の単位が一町一町になっておりまして、町の万端は地面を持ったものだけがする。地面を持つには、それだけの資力のある人でなければなりませんから、自然と銭のある商人が権利を得て銭のない、地面のないものは、そこから除外されることになる。したがって、町人といえば商人のことになって、町内費用の相談などという時にも、第一が地主寄合、その次が町内寄合――これは地面を借りて家作をした人――というふうになっております。とにかく、すべての町内費用は表店の人が出すので、裏店の人は何も出すわけじゃない。」
それは,たとえば,
「今日でいえば、地方税とか、市町村税とか、そんなもの」
も払っていない,ということで,裏店の人間は町人の員数に入っていない。逆に言うと,ここで鳶魚の言う「町人」は,「江戸ッ子」とは呼ばないし,自らもそう認識していない,ということにらしいのである。
では,いつから「江戸ッ子」という言い方をするようになったのか。
「この江戸ッ子という言葉は、いつ頃からいうようになったかと申しますと、寛政九年に出ました洒落本の『廓通遊子』というものにあるのが、一番古いようです。」
そして,
「江戸者という言葉は、もっともっと古くからありますが、(中略)寛政以来ズーッと江戸ッ子といっているわけでもないので、為永春水の書きましたもの、これは天保期でありますが、これには東ッ子といっております。元禄頃にいった『吾妻男に京女郎』というような気持になって、何だか間が抜けている。そこで、とにかく寛政以来、江戸ッ子という言葉が浮いて出ておりますが、この江戸ッ子という言葉は、気が利いているように、『おらア江戸ッ子だ』と、自称するものの多くなったのは、文化以来のことであります。」
しかし,それを,『飛鳥川』という 随筆の中で,
「近来は、棒手振の肴売りや野菜売りが、ばかに力み出して威張っているが、それがよっぽどおかしい、ということが書いてある。」
と,鳶魚は皮肉っている。この文化・文政期は,家斉の時代で,
「文政二年に小判が改鋳されて、草文小判といい、一歩判も同じく改鋳されて、草文歩判と称されております。文政三年には丁銀も改められ、十一年にはまた二朱銀も改められ…通貨膨脹ということで景気が立つのであります。家斉が近来で贅沢な羽振りのいい将軍だったということも、実はこの通貨膨脹のため」
ということで,「江戸ッ子」にもその余沢が来る。なぜなら,
「この頃は交通が不便でもありましたし、各藩に各々制度がありまして、出稼ぎ人を出すことをしませんから、江戸が景気がいいからといって、労働者を吸収するようなことはない。」
ということが背景にある。この頃,
大工の一日の手間が,四匁二分,
一年に一貫587匁6分,
という。夫婦に子供一人で,一貫514匁かかる,という。この頃,ようやく豊かになったと言って,これである。
本書で鳶魚が強調するのは,我々のなかにある「べらんめい」の,「巻き舌でまくしたてる」という「江戸ッ子」像は,造られたものだ,ということだ。そういうイメージを創り出したのは,
芝居,
であり,
滑稽本(『膝栗毛』『浮世床』『浮世風呂』『花暦八笑人』『七偏人』等々),
だ,と鳶魚は言う。
「芝居だと、江戸ッ子がいかにも活躍する。彼等が得意の痰火を切るということも芝居で聞けばおもしろいが、実際 の江戸ッ子には、あれだけの弁舌はありません。それはよく落語の中に残っていて、皆さんが寄席へ行ってお笑いなさる道具になっているのでも知れております。『金のしゃっちょこを横眼に睨んで、水道の水を産湯に浴び、おがみづきの米を食って、日本橋の真中で育った金箔付の江戸ッ子だ』というような、気の利いたらしい台詞は、実際彼等に言えやしない。皆狂言作者がそういうふうに拵えて、役者に言せるのです。」
しかし滑稽なことに,多くの「江戸ッ子」は本を読まないし,芝居も見ない。鳶魚は,「地主とゆかりのないものは立ち見もできない」という。それを観たり,読んだりするのは,町人なのである。そういう人たちが,「江戸ッ子」を観る。「江戸ッ子」は,芝居を真似て,イメージ通りに演ずる,と鳶魚う言うのである。
「小説でも読む人達は、多少銭のある人達ですから、自分と世界の違った連中が、とんでもないことをするのを、おもしろがって見る。 今日江戸ッ子をおもしろがるのも同じことで、江戸ッ子というものがなくなった後になればなるほど、そういう眼でみることになります。諸君も御自分の境涯におひきくらべになって、江戸ッ子というものをおもしろいと思われるかも知れませんが、いよいよ本当の江戸ッ子がやって来たら、多分諸君は逃げ出されるでしょう。」
と。「江戸ッ子」の風体は,
半纏着
で,
「もう一つ、明らかに江戸ッ子を語っているものは、半纏着という言葉です。半纏着では、吉原へ行っても上げない。 江戸ッ子というと、意気で気前がよくって、どこへ行ってももてそうに思われるが、半纏着だと銭を持っていても女郎さえ買えないんだから、ひどいものです。この連中は、普通の人の着物を長着という。羽織は見たこともない手合だから、長着は持っていない。持っているのは、半纏・股引だけだ。もし長着があるとすれば、単物に三尺くらいのものでしょう。」
と。いったいこの「江戸ッ子」は何人いるのか。
「大概 江戸の人口の一割くらい」
で,五万人,と鳶魚は見積もる。我々のイメージしているのは,町人かその使用人であったが,それを鳶魚は,「江戸ッ子」に入れない。
「町家でも 一軒の御主人は勿論、番頭や小僧に至るまで、 江戸ッ子だなんていってては 商内が出来ない。」
したがって,これを「江戸ッ子」には数えない。では,江戸の範囲は,というと,
「文化・文政の江戸は、ひろがっておりました。江戸という名称は下町のことで、下町というのは城下町の意味ですから、千代田城の前のところ、新橋から筋違見附まで―― 筋違見附というのは、今日では少し曲っておりますが、まず万世橋のところです―― が江戸で、そのほかは江戸じゃない。」
と,そもそも江戸を限定する。で,
「芝へ行けば芝ッ子、外神田なら外神田ッ子で、浅草だの本所・深川は無論江戸じゃない、場違いの方です。また、(中略)江戸前というのはどこかというと、両国から永代までの間、お城の前面をいうのであります。文化・文政の江戸には、本所・深川も入っておりましたが、こういう場違いの江戸ッ子を差引きまして、本場物ばかりですと、まず二万五千くらいの数にしかならない。」
となる。「江戸ッ子」自慢の江戸弁は,というと,
「寛文年中の江戸の流行物を挙げた中に、『まづ年頃のかたがたは、立身せんと朝公儀、三河言葉をにせ廻り、そらいんぎんのきつとばる』という文句がある。これは、江戸のはじめ以来、三河の者が大勢入り込んで来て、それが主人になったわけですから、三河言葉が盛んになった。少し改まった言葉を言おうとすれば、京言葉が入る。三河と、京と、関東と、この三つがごっちゃになってゆくわけす。」
あるいは,
「西沢一鳳は、江戸の言葉は方々の寄せ集めみたいなものであるから、本当に江戸にもとからあった言葉は、甚だ少ない、江戸の言葉というものは、関八州の言葉を取り合せたもので、それを江戸言葉と言っているのだが、だいたいから言えば、京、大坂の言葉を詰めて短く言っているように思う」
と。「江戸弁」つまりは,「江戸なまり」だが,「江戸ッ子」が限定される以上,「江戸ッ子」以外は使わない。鳶魚は,こういうのである。
「一体、江戸言葉・江戸訛り・関東べい・東訛りというようなものは、中流以上の人の言葉には聞かれないもので、 これは早く昔の人も言っている。江戸だからといっても、上等の人々は、ちっとも言葉に変りがない。日本中押し通したものだ。殿様なんていう人達になれば、奥州大名も西国大名も、話がわからないようなことは決してない。それほどでなくても、中等以上の人であれば、武士にしろ町人にしろ、お互いにわからないような言葉は遣わない。」
少なくとも,本書を通して,「江戸ッ子」のイメージが完全に変わることは間違いない。
参考文献;
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください