落語に有名な,「ときそば」がある。
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/11/post_13.html
夜鷹そばとも呼ばれた屋台の二八そば屋で,
「九つ時(午前零時),蕎麦を食べ終わった男が,16文の料金を支払う。ここで,「おい、親父。生憎と、細けえ銭っきゃ持ってねえんだ。落としちゃいけねえ、手え出してくれ」と言って、主人の掌に1文を一枚一枚数えながら、テンポ良く乗せていく。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)」と数えたところで、「今何時(なんどき)でい!」と時刻を尋ねる。主人が「へい、九(ここの)つでい」と応えると間髪入れずに「十(とう)、十一、十二、十三、十四、十五、十六、御馳走様」と続けて16文を数え上げ、すぐさま店を去る。」
と,代金の1文をごまかしたのである。
江戸後期の「風鈴蕎麦」の屋台(深川江戸資料館)
「そば」の歴史は,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6
に詳しいが,「そば」は,
蕎麦,
と当てる。古名は,「そばむぎ」で,その略とされる。語源は,
「そば(稜・カド)」
で,とがったカド(稜角)がある三角形の実の穀物が語源とされる。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/so/soba_mugi.html
は,
「『ソバムギ』を略した語で、『ソバ』は『わき』や『かたわら』を意味する『側・傍』ではなく、『とがったもの』『物のかど』を意味する『稜』に由来する。 これは、植物のソバの実が三角 卵形で突起状になっていることからである。 実は乾くと黒褐色になることから、『和名抄』では『ソバ』を『クロムギ』と称している。食品としての『そば』は、そば粉に熱湯を加えてかき混ぜた『ソバガキ』が、江戸時代以前には一般的であった。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は『ソバギリ』と呼ばれた。」
としている。
http://gogen-allguide.com/so/soba_mugi.html
には,
「日本語学者の杉本つとむによれば、そばの実は、形が三つに分かれていて、それぞれの形が山の稜線を思わせる。つまり谷を挟んで三つの山がそばだっているように見える。そこでそばだった麦と言う意味で、そば麦と名づけられたのだという。」
とあって,よりその意味が理解できる。
『由来・語源辞典』には,
「『蕎麦』は漢名からの当て字。」
とある。さて,その蕎麦,というと,落語にもある。
二八蕎麦,
であるが,辞書(『広辞苑』)には,二説載る。
蕎麦粉八,うどん粉二の割合で打った蕎麦。寛文(1661~1673)頃定式化したという,
(天保頃(1830~1843),もり・かけ一杯の値が16文だったことから)安価な蕎麦,
これは,他の辞書もおおむね同じで,『古語辞典』も『大言海』も両説を載せる。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%85%AB%E8%95%8E%E9%BA%A6-592572
の,『和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典』によると,
「そば粉を8に対し、つなぎの小麦粉を2の割合で打ったそば。古く、慶応年間(1865~1868)以前には、2×8=16で、1杯16文のそばをいったとされる。時代が下って小麦粉を混ぜて作ったそばに質の低下したものが増えると、『二八そば』はそのような安価なそばの代名詞のように用いられ、高級店ではそば粉だけで打つ『生そば』を看板とした。こんにちでは単に配合をいい、そばの質や店の格とは無関係に用いる。」
と,経緯を説く。
基本,割合か,値段か,の二説だが,
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html
は,「江戸時代のそばの値段」と「そば粉とつなぎの割合」について詳しく見た結果,
「『十六文価格説』はそばの値段の推移という観点からの矛盾と、『配合割合説』は計量の歴史である枡(ます)の時代の視点にたっていないための説得力に欠ける部分に加え、うどん粉だけの筈の二八うどん、更には二六にうめんもあって配合割合では説明できない矛盾に突き当たってしまう。 すなわち、どちらの説を採っても『二八そば』の語源にはなりえないのである。」
として,
「結論から言うと、『二八そば』という言葉は『二八』または『仁八』という名前の人が自分の売り出すそばに付けた名目であった。いうまでもなくこの時代は、そばもうどんも同じ扱いで、値段も同じだからそばの名目としての『二八』はうどんにも共通する。その彼はそば切りの名手であり、打ったそばは当時の評判になって『にはちの蕎麦』、『二八そば』として『二八』がひとつの言葉・呼称として確立していったのであろう。」
と,とんでも仮説を持ち出す。計り方はともかく,値段については,
「そばの値段が十六文で定着してからのニハチ十六モン『九九・価格』の期間は長く続いた。ところが幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになってニハチの根拠が無くなってしまう。それで一時期はしかたなく単に『二八そば』という呼称だけが習慣として残ることになる。
それがふたたび、『二八』はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとして再出現し、さらに高品質イメージに加えて、『打つ側も味わう側も』ちょうど頃合いの配合比率であったところから、『粉の配合割合』を表す言葉として、すなわち『二八の割合』という新しい解釈が生まれて現在に至ったのである。」
と言っているように,長く,十六文時代が続いたのであって,値段が変わっていないと,言っているのである。今日の使われ方は,意味が質に変ったのかもしれないが,もともとの「二八蕎麦」の語源とは関係ない。それで思い出すのは,三田村鳶魚の説である。
「玉子つなぎ・芋つなぎなんていうのを、格別に言い立てて売物にしていたのが、それを看板にしなくなったのは、天保以後だと思います。一体、一八・二八・三八などというということが、蕎麦と饂飩との配合の加減をいったものだという説がある。けれども、芋つなぎ・卵つなぎということから考えてみると、一方には、生蕎麦といって、蕎麦ばかりで拵えるということを呼びものにする。それも田舎蕎麦は生蕎麦であるということを標榜するために、手打蕎麦というのを名としてさえいる。もしつなぎに饂飩粉を入れる分量を名称に現すとしたならば、それだけ蕎麦が悪い ことになる。正味の少ないことを看板にするようなもので、これはおかしい。だからだから昔から、二八といえば十六文、三八といえば二十四文というふうに、蕎麦の代価だと解している。どうもこの方がよさそうに思わ れる。」
ほぼ幕末まで値段が変わっていないのなら,鳶魚の実感には意味が出る。まして,
「蕎麦粉は『引抜』といって、色が白くなりましたのは、寛政元年の秋からで、それまでは蕎麦というものは、少し黄色味を帯びたものと思っていたのです。これ等のものは、江戸ッ子なんていう連中が食うには、少し銭が高い。けれども、毎月二度や三度は物食いに出るというような風習をもっていた江戸ッ子は、奢りに行くと称して、随分五十文、七十 文の蕎麦を食ったろうと思われる。 安い二八や三八の方はいうまでもない。その時分の労銀としては、三百か四百しか取れませんが、火事があった、嵐があったというようなことがあれば、日雇取連中は、二倍、三倍、甚しきは五倍も七倍もの賃銀を取った。 …江戸ッ子連中は、時たま、どうかして余分な銭でも取れれば、じきに何か食ってしまう。自宅では食えないものを食いに出掛ける。奢りにゆく風習は、彼の日常を存分に説明しています。あるいはまた下駄のいいのを穿く、手拭に銭をかける、というふうがあった。」
とすれば,日常は,「二八蕎麦」は,まさに落語の江戸ッ子の日頃の食い物なのである。落語の登場人物の現実味が増すというものである。因みに,鳶魚の言う,
江戸ッ子,
とは,裏店(商売の出来ない場所)に住む,
「日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない。」
表店に住むのが,町人である。その辺りは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html?1461182711
で触れた。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm