自己語り
ジョン・マクレオッド『物語りとしての心理療法―ナラティヴ・セラピィの魅力』を読む。
著者は,
「〈新しい〉セラピィといったものは,存在しません。」
という一文から書き始める。昔からあったさまざまな実践を無視しているだけだ,と。目新しいものがあったとしても,それは,「より広範な,より豊かな文化の伝統から引き出されたもの」だ,と。
しかし,同時に,
「あらゆる心理療法は,〈新しい〉セラピィでもある。」
とも書く。それは,仮に最新のマニュアル化されたトレーニングを受けたとしても,「セラピストは誰でも,その人に特有な経験や価値観を自らの実践に持ち込」み,心理療法モデルは,「個々の世界観やスタイルに統合」され,結局,
「クライエントとの出会いは個別的になるのです。」
だから,「あらゆる心理療法は『新しい』セラピィでもある」と。本書は,
「心理療法におけるストーリーの役割と意義について検討する。」
と書く著者自身,ストーリーの必要性を,クライエントから教えられたとして,
「クライエント…らは,悲劇的で,しかも絶望的な内容の自己語り(self-narrative)を抱えて,私のもとを訪れました。これらの人びとは,自己のストーリィを語るなかで,やがて奮い立ち,それまで甘んじてきた人生のあり方に対して異を唱えることができるようになりました。そして,辛いと感じられていた出来事が,実は,より大きな人生のストーリィが展開するなかで起きたエピソードであるとの見方ができるようになりました。より大きな人生のストーリィが見えてくることは,そこに含まれている人生の意味と目的も感じられるようになることです。」
と書く。そこで,
「心理療法をナラティヴののプロセスとして理解することが理にかなっていることに気づきました。つまり,心理療法の過程は,自らの行動をストーリィとして語り,その内容を編集し,書き換えるというナラティヴのプロセスとして理解するようになったのです。」
と。だから,本書は,
「『あらゆる心理療法は,ナラティヴ・セラピィである』ということです。あなたがセラピストであれ,クライエントであれ,あなたが心理療法においてしていること,あるいはしていると思っていることは,語ることと語り直すことという観点から理解できるのです。」
ということについて書いたものだ,と。その背景にあるのは,
社会構成主義,
である。したがって,著者は,
「私は,心理療法を,単にクライエントとセラピストとの間で起きるプロセスとしてだけではなく,研究,研修,組織などを含めて心理療法活動を取り巻く文化的様式とみなしています。そうした広範な領域に対してナラティヴ理論が持つ意義を検討することを本書の最終目標とします。」
と,宣言する。そのために本書では,
「なぜ,心理療法が現在のような形をとるに至ったか」
について,著者自身の答を提示する,と。だから,心理療法の歴史を文化的観点から検討し,
心理療法を一種の文化形態,
とみなし,「ストーリィや物語ること」の意味を,
「心理療法と文化をつなぐ結節点」
として,明らかにしようとしていく。
社会構成主義については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390438872.html
で触れが,ポストモダンの時代の特徴を,
「自己の断片化」
であり,他者や他の集団から,
「一貫した全体像」
を把握されることのない時代,つまり,
部分自己,
がテーマとなる,ということである。そのとき,
「物語行為の実践の場」
である心理療法では,何をすべきなのか。
「視点を内部から外部へとずらすこと」
という。つまり,
「哲学者マッキンタイアーは,人間が『本質的に物語る動物』で…『〈私は何を行うべきか〉との問いに答えられるのは,〈どんな(諸)物語のなかで私は自分の役を見つけるのか〉という先立つ問いに答を出せる場だけである』と…書いています。私たちの生を構成するストーリィの大部分は,私たちが生まれる前から,そして死んだ後も〈そこにある〉のです。文化のなかで,人間として生きるための課題は,個人の経験と〈自己を見いだすことのできるストーリィ〉との間に,十分な調整を加えることです。セラピストの仕事は,特にこの調整がうまくいかなくなったとき葛藤に際して,再調整を促すことです。ナラティヴの観点に立つと,…一人ひとりの個人的な経験へと〈内向する〉のではなく,文化のストーリィへと〈外向〉することが迫られるのです。」
である,と。このことは,ストーリィの意味の機能の面と,ポストモダンという時代の意味,との二つの面から,言及されていく。
先ずは,ストーリィについては,前に触れたことがあるが,ブルーナーが,人間が世界を認識する方法として,
物語的認識 ストーリー・モード(Narrative Mose)
と
パラディグマ的認識 パラディグマティック・モード(Paradigmatic Mode)
があるとし,前者は,「人びとが自らの経験を語るストーリィを通じて」,後者は,「科学的な思考モードに端を発し,抽象的で命題的な認識を通じて」,表象される。ここでナラティヴというのは,「ある特定の出来事の説明」というストーリィとは異なり,
「単なるストーリィの提示だけではなく,それに加えて〈物語る〉というコミュニケーション形態も含まれています。」
従って,たとえば,語り手や聴き手としてストーリィに参加することができる。そして,この能力は,人が,言語習得とほとんど同時期に,語る能力を獲得するらしい。そこで,
経験を順序立てて再現し,
物語化は,日々の生活の中の逸脱した経験を説明したり,対処したりする,
ストーリイの伝える情報には,語り手の内的世界の表明を含んでいる,
経験を物語ることで,ジレンマや緊張状態を解決する手段になる,
無秩序な経験を因果的な筋道に当てはめて理解するのを促す,
ナラティヴには,関係的世界が含まれている,
物語ることで,一人の人間を,誰かに知らしめるという社会的機能をもつ,
ストーリィは,語り手が社会や文化の中で,どのように位置づけられるかの情報を伝達している,
等々,ストーリィを語ることは,
「単に情報や経験の表象であるのみならず,社会的・対人的な行為の形式でもある…。(中略)ストーリィを語っているクライエントは,ただ単に一連の出来事を報告しているだけではないのです。同時に社会的なアイデンティティを構築しているのです。…自己を語り,そしてそれを価値あるものとして聴いてもらえるという経験は,まさに,自分の存在の新たな意味の創造に向けた一つのステップなのです。」
「現在に至るまでの人生の道のりには,(終着点についての将来的な予期まで含めると)さまざまなエピソード,出来事,人間関係が存在します。それらの多様性に一貫性をもたらすのが,自己語りなのです。」
しかし,そこには,自己を語る時の限界もある。
「自己語りという概念が暗々裏に前提にしているのは,自己がまとまりのある何かとして存在し,さらに一貫した自己感に到達することを望ましいとみなす考え方です。また,自己が内外をわける境界をもった自律的存在であることも前提とされています。」
つまり,
一貫した自己感という個人神話,
単純に一元的に語られる自己概念,
である。むしろ,
多元的に語られる自己,
という観点で見るならば,
「自己は,多様なナラティヴ群に囲まれ…,さまざまに異なる状況,人間関係,場面,人びとと結びついています。」
これを,著者は,
単一化した自己感,
と
散在し,インデックス化された自己感,
と区分し,単一のストーリーによって人生の特徴を意味づけるのを,
単一解的,
という考え方を紹介し,そうではない解を取ろうとしている,と見なすことができる。たとえば,ホワイトとエプソンの,「外在化」について,
「『外在化』の…『外部』という概念が表しているのは,自律的な内面をもつ自己を具えた人間という,近代のイメージからの脱却と,新たなイメージへの移行です。近代的な人間の概念においては,内面の自己に対しての絶え間ない探索と注意が求められていました。それに対して,新たに移行の先にあるのは,『文化に埋め込まれた行為をなす人間』というイメージです。あるいは,『語りを生き,語りを紡ぐ存在としての人間』というイメージです。」
それは,
社会に孤立した,自己完結した自律的自己,
ではなく,
自己の概念の広範な多様性,
に着目することであり,同時に,
「構成主義的なナラティヴ・セラピィでは,個人的な自己という概念は,人間(person)という概念に取って代わられます。その意味するところは,(中略)『人間』について語ろうとすれば,おのずと意図的な活動に携わる能動的な主体としてのあり様や,関係的なあり様を意味することになります。」
静的で,単位としての自己概念は,
能動的な社会的な存在,
に変る。とすれば,自己のストーリィは,
「どのようにしてここに至り,どこに向かおうとしているのか」
ということである。例のポール・ゴーギャンの大作,『我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』が示しているのは,そういうストーリィである。
外へ,というのは,自律した固定的自己概念から出ることであり,自己を語るとは,単一のストーリィを,
著者として,再著述すること,
である。
「ひとたびストーリィが語られたなら,そのストーリィは改訂の機会に開かれたものとなり,異なるバージョンが生じる可能性が出てきます。(中略)社会構成主義的セラピストは,この『著述』という語を『会話』に近い意味に用います。そのために,『著述』とは,それが語られるたびに,新たな意味の地平が見出されるプロセスとなります。過去の語りと照合されつつ,新しいバージョンが生み出されていくのです。
そのときセラピストの目標は,
「『あるストーリィを他のストーリィで置き換えること』ではなく,『意味を創出し,変容する絶え間ないプロセスに関わるようにクライエントをいざなうこと』です。言い換えれば,伝統や文化を形成する協同的なディスコースや会話に加わり,寄与することなのです。こうした観点にもとづく心理療法は,『自己』についての最終的で決定的かつ固定的な理解に到達するためのものではありません。そうではなく,『理解の途上にとどまり続ける』ためのものとなります。」
ここでセラピストがすることは,クライエントを治療したり改善することではなく,こうした「共同構成」を通して,
「単に自らのストーリィを語る場があり,そこでそのストーリィを尊重され,受け止められることが計り知れない自己肯定感を得る経験」
となる,ということであり,これが,
「心理療法と文化をつなぐ結節点」
ということの意味でもある。ただし,ナラティヴは,自己完結したものではない。
絡み合ったナラティヴ群の一部,
であることを忘れてはならない。社会性つまり,
能動的な社会的な存在,
とはそういう意味でなくてはならない。
参考文献;
ジョン・マクレオッド『物語りとしての心理療法―ナラティヴ・セラピィの魅力』(誠信書房)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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