2016年05月09日
人生の意味
アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学(上下)』を読む。
アドラーについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395411257.html
で,『個人心理学講義』を取り上げた。そこで,アドラーは,
「個人心理学が目指すのは,
「社会」適応である,
と言い切る。それが,目的である,と。本書の『意味』もその延長線上にある。
本書は,
「人間は意味の領域に生きている。われわれは状況をそれ自体として経験することはない。いつも人間にとって意味がある物だけを経験するのである。われわれの経験は,その根元においてすでに,人間的な目的によって規定されている。『木』は『人間との関係における木』という意味であり,『石』は『人間の生活における要素であるかぎりのものとしての石』という意味である。意味を排除して事実だけを考えようとする人がいれば,そのような人は非常に不幸になるだろう。自分を他者から切り離すことになり,行動は自分にも他人にも役に立たなくなり,一言で言えば,無意味になるだろう。しかし,人間は意味を離れて生きることはできない。」
という文章で始まる。この文章を読みながら,
アフォーダンス,
ということを連想した。意味は,人間だげにあるわけではない。ジェームズ・J・ギブソンは,
環境が動物に対して与える「意味」
を,アフォーダンスと名づけた。それは,関係性を言う。それは,また情報,つまり,対象にこちらが付加した意味によって,それが情報になる,ということでもある。しかし,ここで,アドラーが言っている意味は,もっと限定されているようだ。続けてこう言っている。
「『でも,なぜ生きるのか。生きることの意味は何か』…こんな質問をするのは,何かでつまずいている時だけだといっていい。何もかもうまくいっていて,難しい問題にぶつかっていなければ,そのような問いが口にされることはない。むしろ,人がこのようなことを問い,それに答えるのは,行動においてである。(中略)人が固有の個人的な『人生の意味』を持っていて,意見,態度,動き,表現,癖,野心,習慣,性格特性のすべてが,この意味に一致していることがわかるだろう。」
これが本書のテーマである。人は,「自分の意味」(あるいは目的と言い換えてもいいが)をもち,そのための手段を選択して生きている。だから,手段の過ちを見れば,その人の躓き(犯罪や心の病や挫折等々)の意味の錯誤がわかる,というわけである。だから,
「人生に与えられる意味は,人間の数と同じだけある。そして,おそらく…どの意味も,多かれ少なかれ,誤っている。人生についての絶対の意味を知っている人はいない。したがって,役立ちうるどんな意味も,絶対に誤っているとは言えない。すべての意味はこれら二つの限度間の差異である。しかし,意味は多様であっても,ある意味はうまく機能し,あるものは,あまり効果的ではない。…われわれは,よりよい意味が共通して持っているものは何か,より満足できない解釈に欠けているものが何かを見つけることができる。」
そこから引き出された,共通の意味は,
人生の三つの課題(タスク),
と名づけられている。「それが人の現実を構成する。なぜなら,人が直面するすべての問題や問いは,そこから生じるからである」と。それを,
三つの絆,
とも言う。一つは,
仕事,
である。それは,
「われわれがこの小さな宇宙の殻,つまり,地球の上で生きている…。(中略)われわれは地球上で個人として生きるためにも,人類が存続することを保証するためにも,身体も心も発達させなければならない。これは,すべての人に答えることを挑む,逃れることのできない問題である。われわれが何をしても,われわれの行為は人間生活の状況へのわれわれ自身の答である。」
という意味づけを与えられている。ふたつは,
対人関係,
である。
「われわれは誰も人類のただ一人の成員ではないということである。われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。(中略)われわれは常に他者を考慮に入れ,他者に自分を適応させ,自分を他者に関心を持つようにしなければならない。この問題は,友情,共同体感覚,協力によってもっともよく解決される。」
とくに,「共同体感覚」の不足が,あるいは人への無関心が,人の不適応(心の病,犯罪,問題行動等々)の背景にある,というのが,しはしばアドラーの下す診断に見られる。三つ目は,
性,
である。
「人間がふたつの性でできているということである。個人と共同生活の維持は,この事実も考慮に入れなければならない。愛と結婚の問題はこの三番目の絆に属する。」
アドラーは,交友(第2の課題)と労働(第1の課題)の,
「最善の仕方で成就する解決は,一夫一婦制である。」
と繰り返している。アドラーは,人が,この三つの課題にどう対応するかに,「人生の意味の解釈」が明らかになる。それが,世界ついて,自分の経験について,自分をについて,どう意味づけるか,につながる。その総体を,
ライフスタイル,
と名づけた。そのスタイルに基づいて,目的を立て,手段を選んで,行動する。アドラーは,その手段から,目的を推測し,ライフスタイルを推定する。その意味では,
因果律,
という仮説で成り立っている,といってもいい。だから,二つの例示を対照的に提示する。
「例えば,性生活が不完全な人,仕事で努力しない人,あるいは,友人がほとんどいなくて仲間と接触することを苦痛だと思うような人を仮定しよう。そのような人は,人生において自分自身によって課された限界と制限から,生きていることを好機がほとんどなく失敗ばかりの困難で危険なことと見ている,と結論づけてよい。そのような人の行動範囲が狭いことは,次のような考えを表現していると解釈できる。『人生は,危害に対してバリケードで自分を守り,無傷で逃れることによって自分自身を守ることである』」
「他方,次のような人を観察すると仮定しよう。その人は親密で協力に満ちた愛の関係を持っており,仕事は有益な成果へと結実し,友人は多く,人との結びつきは広く豊かである。このような人は,人生に多くの好機を提供し,取り消しの出来ない失敗をもたらすことのない創造的な課題と見ている,と結論づけてよい。その人の人生のすべての課題に直面する勇気は次のようにいっていると解釈できる。『人生は仲間に関心を持ち,全体の一部であり,人類の幸福に貢献することである』」
そして,前者のような「誤った『人生の意味』とあらゆる真実の『人生の意味』の共通の尺度」を,
共同体感覚,
と呼ぶ。しかし,そうやって因果で整序したぶん(それをドミナント・ストーリーと考えれば,),そこからこそぎおちていく部分に,別の物語(オルタナティブ・ストーリーが一杯)がある,とナラティヴ・アプローチなら,いうのではあるまいか。
「すべての誤り―神経症者,精神病者,犯罪者,アルコール依存者,問題行動のある子どもたち,自殺者,倒錯者,売春婦―が誤りであるのは,共同体感覚を欠いているからである。彼(女)らは,仕事,友情,性の問題に取り組む時,それらの問題が協力することによって解決できると信じていないのである。彼(女)らが人生に与える意味は,私的な意味である。つまり,自分が行ったことから益をうけるのは自分だけである,と考え,関心は自分にだけ向けられているのである。彼(女)らの成功の目標は単なる虚構の個人的な優越性であり,勝利は自分自身に対してしか意味をもっていない。」
ここに,少なくとも,アドラーの考えている(彼の現実がどうだったかどうかは知らないが)ライフスタイルが反映していることだけは間違いない。
それにしても,「人生の意味」に正誤をつけ,「すへきである」と断言すること自体の是非については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395411257.html
で触れたので,ここでは問わないにしても,少なくとも,アドラーが自分自身だけがすべてに正解をもち,それを基に人を判断する,という過去のセラピストのスタイルの典型をここに見るような気がすることだけは確かだ。
個人的には,
器官劣等性
劣等コンプレックス
優越性
優越コンプレックス
と言った独特の用語からも,何となく,正解を持つ者の(上からの)視点を感じ,いま流行っているらしいのだが,
強者の論理,
の匂いが,そこここにして,ちょっと好きになれない
参考文献;
アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学(上下)』(アルテ)
ジェームズ・J・ギブソン『生態学的視覚論』(サイエンス社)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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