2016年05月10日

つらね


「つらね」は,

列ね,
とも,
連ね,

とも当てる。語源は,『古語辞典』を見ると,

「ツラ(列)・ツリ(釣)ツル(弦)・ツレ(連)と同根」

とあり,

縦に一列に並ぶ,

という意味で,そのアナロジーで,

ひきつれる,
とか
順序つけて並べる,
とか,
ことばを並べ整えて歌をつくる,
とか,
連歌で,前の句を受けて,次の句をつけてつづける,

といった意味に広がっていく。ここで,「つらね」というのは,限定されていて,おそらく,『大言海』のいうように,

「言葉をつらねる意」

から来ていると思うが,

浄瑠璃・小唄などで,縁語でつづった文句,
歌舞伎で,主役が花道で朗々と述べ立てる長台詞。延年のつらねの影響という,

という意味になる。辞書(『広辞苑』)には,

猿楽・延年舞などで,言葉や歌を長々と朗誦すること,つらねごと,
歌舞伎で,主として,荒事の主役が自分の名乗り,物の趣意・由来・功能から名所づくし,名物立てなどを,縁語,賭け言葉を使って,述べる長いセリフ。「暫」のつらねは代表的,

と載る。歌舞伎にも猿楽にも疎いので,いちいち調べないと埒が明かないが,因みに,「延年」は,本来の意味は,

寿命を延ばすこと,

という意味だが,辞書(『広辞苑』)には,

東大寺・興福寺その他の大寺で,大法会の余興として,僧侶や稚児の行った芸能の総称。平安中期に起こり,鎌倉時代に盛行。風流,連事,開口,当弁,俱舎舞,白拍子,若音など種目が多い。室町時代末には衰え,現在僅かの寺院に面影を残すにすぎない。延年舞とも。

とある。これ以上深入りすると,元へ戻れなくなるかもしれないが,『大言海』にある説明が具体的である。

「(避齢(「かれい」と訓むらしい)延年の義に拠ると名と云ふ)僧家の舞。略して,延年とのみも云ふ。平安朝の末に,既に行はる。比叡山の延暦寺,奈良の興福寺にて大會を行ふ時,必ず奏せり。其の他神事にも,酒宴の興にも舞へり。場は,方三十間許,二人の小法師,裏頭(くわとう),赤袍,白大口,白袈裟にて舞ひ,數僧,謡ふ。楽器は,銅鈸子(どうばつし)と鼓となり。床拂,拂露,開口など,種々の目あり。興福寺延年の舞の歌『梅が枝にこそ,鶯は巣をくへ,風吹かば,如何セム,花に宿る鶯』などあり。比叡山に,亂舞の遊僧とて,種々の藝もするなり。」

とある。因みに,裏頭(かとう)とは,

僧侶が袈裟で頭から顔を包み、目だけ出した装い,

で,例の弁慶の風体を思い描けばいい。その着用は,

http://ikkaiyoroi.com/katou.htm

にある。ついでに,銅鈸子(どうばつし)とは,

「中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を両手に持って打ち合わせるもの。仏教儀式では鐃鈸(にょうはち)、田楽では土拍子、神楽などでは手平金(てびらがね)、歌舞伎下座音楽ではチャッパなどとよばれる。」

とある。毛越寺に伝承される延年の舞については,

http://www.motsuji.or.jp/rekishi/data03.html

に詳しいが,

「常行堂内では、古伝の常行三眛供の修法のあと、法楽に延年の舞が奉納されます。『延年』とは『遐齢(かれい)延年』すなわち長寿を表します。遊宴歌舞は延年長寿につながるというところから、諸大寺の法会のあとに催される歌舞を総称して「延年」と言ったのです。
 仏を称え寺を讃め千秋万歳を寿くのですが、曲趣は様々で、風流に仕組まれたものは漢土の故事などの問答方式に舞楽風の舞がついたものや田楽躍(おどり)など、当時の流行の諸芸を尽くして祝ったもののようです。」

『大辞林 第三版』の「延年舞」の説明に,

「のちに遊僧と呼ばれる専業者が出現し,中国の故事に題材をとる風流(ふりゆう)や連事(れんじ)などは能楽の形式に影響を与えたといわれる。現在も地方の寺院にわずかに残っている。」

とあるところから見ると,専門家集団も生まれていたらしい。猿楽との関連が気になり,素人には,この専門家,いわゆる「遊僧」とつながるように想像するが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B9%B4

には,延年は,

「単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称である。正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われている。能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説ある。初期には下級僧侶や稚児らにより、法会や貴族来訪の際の余興として行われたと思われる。やがてこの寺院で行われる催しに人気が出始めていくにつれ、観衆をより楽しませるために上記のような様々な芸能を取り入れていった。演じ手も、芸に熟達した僧達を中心に行われるようになっていった。これら延年を専門的に演じる僧は「遊僧」「狂僧」と呼ばれた。」

とあるので,はじめは,僧の演じていたはずのものが,専門家に委ね,

「一部の寺院における祭礼の際の延年は規模も大きくなっていった。延年風流と呼ばれる演劇的な出し物では、二階建ての装置や移動可能な山車のようなものなど、大がかりな舞台装置も使われる場合もあった。こういったけれん味のある舞台装置を使う発想は、後に歌舞伎に取り込まれていった」

とする説もある,という。猿楽自体,

「申楽と記すこともある。平安期では曲芸,滑稽(こつけい)なしぐさ芸,掛合芸,物まね芸などをいい,平安末期には筋立てのはっきりしたものになったようである。鎌倉期には楽劇的要素を加え,室町初期にはせりふ劇プラス歌舞芸として,現在の能の祖型が完成する。」

というように,さまざまにあった芸能が,いくつかに分枝し,互いに影響し合ったのだろう。そんな芸能の由来のなかに,歌舞伎の「つらね」はある。

『世界大百科事典第2版』は,「つらね」を,

「起源は猿楽,延年の連事(れんじ)から転化したものといわれている。《暫(しばらく)》《曾我の対面》などにおいて,懸詞や何々づくしといった趣向による音楽的な要素の強いせりふで,俳優の自作であることが約束とされ,その述べかた,雄弁術が一つの売り物となっていた。野郎歌舞伎初期から始まり,元禄期(1688‐1704)に盛んに行われた。《暫》の主人公が述べる〈つらね〉や《外郎売(ういろううり)》が述べたてる早口ことばの〈つらね〉などはその代表的な例にあげられる。」

と解説する。

二代目団十郎・暫.jpg

二代目團十郎の鎌倉権五郎


『暫』については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%AB

に詳しいが,三田村鳶魚は,前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435717090.html

の「啖呵」や,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435765931.html?1459109089

の「台詞回し」で触れことがあるが,「つらね」を,こういう文脈のなかで語っていた。

「市川団十郎というものが江戸の名物になっている。この団十郎は歌舞伎三座―― もとは四座あったのですが、山村座がなくなって、中村座・市村座・森田座と、この三つが最後まであった――の座主ではない。はじめからしまいまで抱え役者でありました。が、抱えられる身分であるに拘らず、芝居道で大そう重んぜられている。ただ芝居道で貴ばれるばかりでなく、江戸の名物となり、江戸の表徴のようにもなった。というのは、彼の家の芸とする荒事、彼の得意であるツラネ――希代にまた団十郎の家では、弁舌の達者な者が多く出ております。このツラネというのは、まず悪対の塊りみたいなものです。痰火を切るというのは漢方医者の言葉で、咽喉へ痰が詰ってゼイゼイいう、そこへ熱を持つから痰火というのですが、咽喉へからまる痰を切って出せば気持がよくなる。そこで『痰火を切る』という言葉が出来た。『溜飲を下げる』などというのも同じことで、この悪対の塊りを出す。いわんと欲していうことの出来ないことをいう。芝居を見物してそれを喜ぶ。また、実際見ないでも、見て喜ぶ人達の様子が自分達を浮き立たせるから、見ない手合までが騒ぐ。芝居はこの悪対というものによって、江戸ッ子に景気をつけ、人気取をする。そこに悪対趣味というものが出来て、ツラネというものが喝采される。」

ちなみに,「せりふ」を,

http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess161.html

では,1人で言う場合と、2人以上で言う場合にわけ,1人で言うせりふを,

普通のごく一般的なせりふ,
独白 ---- 独り言,
名乗りせりふ ----松羽目物で役者が登場したときに述べるせりふ,

の他に,

つらね ---- 主として荒事芸などで主役が花道で述べる長ぜりふのこと,
厄払い ---- つらねの一形態ですが、せりふの中に厄落しの文句が入るので特にこう呼ぶ,

を入れている。

http://d.hatena.ne.jp/Rejoice+Kobikicho/20120318/1332050044#20120318f2

そこに,五代目市川團十郎の「つらね」を載せている。

「東夷南蛮骨継北狄せむしの大妙薬、くじき打身をためなおす、おやぢが譲りの小手脛当、柿の素袍も時分柄、納豆烏帽子の腕白盛り、さかり出たる色若衆は、東山義政が股肱の臣、荒獅子男之助茂満、生年積って十八町、きつゝ馴染のむかひ町、御贔屓のおしうりは、あつかましくも荒事の、血筋を受けた持病の虫、そのお叱りのお言葉を、かへり三升の紋所、一升一しょう又一升あわせて三升(さんじょう)仕った、森田勘弥がやつかい若衆、念者は誰だ、まき賣り提灯樽蒸籠、いとなみたつる其のうちに、夜はほのぼのと赤筋隈、まだ里馴れぬ鶯の蚕のうちのほとゝぎす、一聲かけた盲蛇、海老が譲りの小刀細工、きめ込割込鼠木戸、太鼓とともに夜の内から、いずれも様へお目見得を、したさのゝゝゝゝさしで者、しんまい新板新桟敷、初奉公の手見せ顔見勢、慮外働くうんざいめら、えり髪つかんで片つぱし、あかん堂の家の棟から、築地の海へはふり込むと、ホゝ敬って申す。」(明和八(1771)年 森田座『葺換月吉原』)

参考文献;
http://d.hatena.ne.jp/Rejoice+Kobikicho/20120318/1332050044
http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess161.html
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.ht

posted by Toshi at 05:09| Comment(0) | 江戸時代 | 更新情報をチェックする
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