2016年05月12日
メタシステム
瀬山士郎『はじめての現代数学』を読む。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/437240511.html
で取り上げた,
竹内薫『不完全性定理とはなにか-ゲーデルとチューリングの考えたこと』
を読んでいて,その参考図書として,著者が薦めていて,興味をそそられたのが,本書を繙くきっかけである。文系の自分には,数学への特別の憧憬があり,時々思いついては,読むが,身についたためしがない。
本書に通底するキーワードは,「モノ」と「コト」である。
「数学全体の流れは一貫していて,現代数学の主題も19世紀までの古典的な数学のなかで育まれてきたものである。にもかかわらず,古典的な数学の方法論や主題と現代数学の方法論や主題には,はっきりとした違いもあるように思われる。それは一言で『モノ』と『コト』との違いというとはっきりする。」
この場合,「モノ」は具体的な実体を指し,「コト」は,出来事であり,「モノ」と「モノ」の関係を指すが,著者は,
「この『モノ』から『コト』への主題の変化が現代数学を特徴づけ,それを古典的な数学から区別する一つの大きなポイントである。」
と書く。その転換点に当たる,
代数方程式の解法についての構造主義的方法,
非ユークリッド幾何学の発見による別世界への旅,
解析学における無限の取り扱いマニュアル,
から,話を始めている。
「作図可能な場合には『モノ』を離れることはない。(中略)しかしながら,作図が不可能であるという場合には,この『モノ』的問題設定と『モノ』的視点は大きな手かせ足かせとなった。なぜなら作図不能であるという『コト』は,文字通り『コト』であって,これを捉えるためには,『モノ』的視点を超えて,作図できるということの構造を知ることが不可欠だからである。そして,この『作図できる構造』は『方程式が解ける構造』と本質的に同一なのである。(中略)したがって直線や円の交点を求めて作図を行うということは,結局,いくつかの一次方程式,二次方程式を順に解いて得られる数を求めていくことと同じであり,そのようにして得られる数だけがコンパス,定規だけで作図可能である。」
つまり作図できる「コト」とは,
「その数が,与えられた数(長さ)から四則演算と開平算を有言回数繰り返して作れ」
るという作図の構造を発見し,三次方程式,四次方程式,五次方程式と,「作図」から「方程式を解く」ことへと「モノ」的視点から「コト」的視点へと転換するまでに,二千年を費やし,ガロアの群論へと行きつく。
「ここに代数学は方程式の解法の探求という古典的『モノ』的主題を離れて,代数的構造の探求という現代的『コト』的主題を研究する数学へと変貌を遂げ」
るに至る。これが,
「作図問題という『モノ』の背後に隠されていた,拡大体による数拡張という『コト』である。」
こうして,どうやら,現代数学が,モノという実体に即したものから,そのメタ・ポジションへと移行していくことなのだ,とわかってくる。
「モノ」「コト」の視点で見ると,ユークリッドの平行線の公理,
「二直線に他の一直線が交わってできる同じ側の内角の和が二直角よ小さいなら,この二直線を延長すると,二直角より小さい側で交わる。」
ここに,著者は,
「平行線という『モノ』と二直線が平行であるという『コト』の微妙なニュアンスの差が顔をのぞかせている」
という。そして,ガウスを経て,ボヤイ,ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学へと至る。著者は,こう書くのである。
「図形という『モノ』に関わっている間は幾何学の土台に想いをめぐらすことはなかったのかも知れないが,平行線公理の成立という『コト』に関わり始めたとたん,論理は空間そのものの成立基盤に直結してしまい,それこそ『コト』の重大さを知らされることになるのである。
かくして…幾何学は二つの方向へと向かう。一つは大域的な空間そのものの研究であり,これは20世紀に入って抽象空間論として結実する。もう一つは公理の無矛盾性を問題とする幾何学基礎論の方向であり,これはヒンベルトを…経て幾何学と離れ,集合論と結びつき,数学基礎論という現代数学の一大潮流を形作るにいたったのである。」
ギリシャ数学は,ある意味,
「『モノ』としての無限を暗黙の了解のうちに図形という容器の中に閉じ込めて置き,無限が暴れ出さないようにしていた。」
しかし,たとえば,ゼノンの「アキレスと亀」「飛矢の静止」というパラドックスのように,
「無限を図形という容器からとり出し,完結した『モノ』ではなく,運動という『コト』に関連させたとたん,無限はその牙をむきだした」
が,コーシーのイプシロン・デルタ法,によって無限という「コト」を手なづけることに成功する。こうした(代数方程式,非ユークリッド幾何学),
「記号化による統辞体系の完成」
が,数学全体を大きく変化させていくことになる。ここから,
集合論,
トポロジー,
命題の記号化,
を経て,ゲーデル,さらに,
ファジー理論,
フラクタル理論,
カタストロフィー理論,
四色問題,
へと展開されていく。その都度,「モノ」「コト」が,視点として通底する。たとえば,集合をめぐって,
「『モノ』としての無限を『コト』としての無限として捉えなおし,その『コト』的無限にあきたらず,再び『モノ』としての完結した無限に果敢に挑戦し,緒戦に大きな戦果を上げながら,後半戦,『モノ』的無限の反撃に遭い,傷つき敗れ去ったのがカントールであった。やはり,『モノ』としての無限は,コーシーのプロセス主義の陰に隠れながら,巨大化していたのである。」
と,さらには,ゲーデル(の不完全性定理)について,
「われわれの見たのは,“形式の限界”であって“証明の限界”ではないことには十分注意を払う必要があろう。不完全性定理は『正しいけれども証明できない定理』という形で流布しているが,その内容はこのように理解されるべきである。」
と,メタ・ポジションで,メタ化(メタメタ…化)された記号という,数学の埒の問題なのではないか。そのことについて,
「あるシステムについて語るためには,そのシステムを外側から眺める立場,いわゆるメタシステムが必要である。たとえば『リンゴは赤い』という文章と『「リンゴは赤い」は肯定文である』という文章と比べてみると後者はメタシステムに属する文章となる。…本来は前者と同じシステムの中では扱えない性格のものだったのである。
ところがゲーデルのコード化による数の三通りの解釈法によって,本来メタシステムの中でしかとり扱えないはずの文章を,システム自体の中でとり扱えるようになった。ゲーデルの不完全性定理はこのようにも解釈できる。この場合,形式化の限界が見えたという側面より,形式化による新しい数学が拓けたという側面を強く感じる」
とも付け加える。そのゲーデルの拓いた形式主義数学の世界の先を見るには,
「その形式が持つ意味を理解することこそが,数学がわかることの最初の一歩であり,かつ最後の一歩に他ならない。」
と。いやはや,元へ戻ってきてしまった。
参考文献;
瀬山士郎『はじめての現代数学』(ハヤカワ文庫NF)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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