2016年05月18日
内発的動機づけ
エドワード・L・デシ&リチャード・フラスト『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ 単行本』を読む。
本書は,内発的動機づけ研究の第一人者,エドワード・L・デシの著作である。原題は,
Why we do what we do
「人を伸ばす力」という邦題とは少しニュアンスが違う。
著者は,「人が何かに動機づけられるとはどういうことなのか,をこの本では考えてゆこう。」と述べている。で,
「そのとき,行動が,自律的(autonomous)か,それとも他者によって統制されているかという区別が大変重要である。自律ということばは,もともと自治を意味している。自律的であることは,自己と一致した行動をすることを意味する。」
著者は,内発的動機づけを,
「活動することそれ自体がその活動の目的であるような行為の過程,つまり,活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程を意味する。」
とし,リチャード・ド・シャームの,
自己原因性(personal causation),
「『チェスのコマ』のような存在ではなく,自分自身の行為の『源泉(origin)』でありたいという欲求」や,チクセントミハイの「フロー体験」との類似性を挙げつつ,その内的動機づけの背景に,人が本来持つ,
自律性,
有能感(competence),
関係性(relatedness),
という三つの欲求(need)を想定している。それは,言い換えると,
行為の選択において,自己決定できるということであり,
それができる自分の有能感(それができるという感覚)をもてることであり,
そういう自分でありつつ他者と結びつきたいという欲求をもつこと,
である,といっていい。「関係性への欲求」について,著者は,
「偽りのない自分であること,自分らしくあること,そして自分自身のペースとリズムで歩んでいくことが重要であるというヒューマニスティックな信念を重んじている。しかし同じように明らかなことは,責任を引き受けることの重要性にも重きをおいているということである。自律性を主張することは,自分だけの世界に浸ることを求めているわけではない。なぜなら,真に自分らしくあるということには,他者の幸福に対する責任を受け入れることも伴うからである。他者とつながっていると感じていたいという欲求が,人に文化の諸側面を自然に身につけさせ,あるいは同化させ,その結果創意あふれる社会的貢献をするようになる。」
この三つの欲求の前提にされているのは,
「自己とは,真の意思にもとづいて偽りのない時分にもとづく行動を行う統合された心理的な核である。」
という考えである。だから,
「偽りのない自分を生きるためには,自律的にふるまわなければならない。なぜなら,偽りのない自分を生きるということは自らが行為の主体であるということであり,ほんとうの自分にもとづいて行動することだからである。自律性,偽りのない自分,そして自己ということを理解する鍵は,統合と呼ばれる心理的プロセスである。心のさまざまな局面がどの程度統合されているか,その人の偽りのない本来的な中心的自己とどの程度調和しているかは,さまざまである。ある行動が自律的だ,その人が偽りのない自分を生きていると言えるのは,その行動を開始して調整してゆくプロセスがその人の自己に統合されているときだけである。」
というわけである。しかし,今日,この「偽りのない自分(authentic)」「真の自己」という表現に違和感を覚えるのは,僕だけであろうか。社会構成主義,あるいは,以前触れた,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/436220288.html?1459800911
で,マーク・L・サビカスが,
人生コースの個別化,
と言っていたのは,言葉は似ているが,まったくの背中合わせである。その意味は,本書の言うような,
「人の内に備わっている中核となる自己を実現する」
という近代的考え方ではなく,
「自己の構成は一生を通じたプロジェクト」
という考え方であり,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/425774541.html
で,平野啓一郎が,「分人」という概念で言っていたのも,それだと思うが,
確固とした自己,
あるいは,
コアとしての自己,
というものがあるのではない。人は,文脈の中で生きる。文脈に合わせて生きる,と言い換えてもいい。その時の自分も,あの時の自分も,いまの自分も,同じ自分であり,その振幅の中に,自分がある。僕は,その考え方がいいと思う。その振幅が,自分を苦しめるとき,自分を見失っているのだ。それは,どこかにある,
「偽りのない自分」
を見失っているのではない。自分という一貫したストーリーを見失っているのである。
アイデンティティを作り直す,
とはそういう意味であった。その意味で,本書は,いささか時代性を感じさせるように僕には思える。
本書を読みつつ,もう一つ気になった(というかよく分からないという方が正確かもしれない)ことがある。
自我関与(ego-involvement),
の概念(の外延)である。浅学非才故かもしれないのだが,自律性との関連で,
「自我関与…は,自分に価値があると感じられるかどうかが,特定の結果に依存しているようなプロセスのことを指す。採り入れられた規範に縛られていて,しかもその規範が随伴的な自己価値感によって強化されているとき,その人は自我関与しているという。もしある男性の自己価値感が仕事にはげんで財産を築くことに依存していれば,彼は仕事に自我関与しているのであり,もしある女性の自己価値感が,健康クラブでの競争に勝つことに依存していれば,彼女はエクササイズに自我関与してるのである。」
と説明する。あるいは,
「人々が多くの出来事を脅威だと解釈する一つの理由は,自我関与を発達させているからである。…自我関与しているとき,自分には価値があるという気持ちが何らかの結果に依存している。価値があると感じるためには知性的だと見られる必要があるかもしれないし,女性らしいとか,強いとか,芸術的とか,ハンサムだとか見られ必要があるかもしれない。人はあらゆることに自我を関与させる可能性があり,そうなったとき,知性的だとか女性らしいと見られようとして,自分自身に対して非常に厳格で統制的になる。そして,自我関与した状態になったとき,簡単に他者に脅かされるようになる。自我関与があると,感情の人質になってしまう。」
で,その状態の自尊感情は,
随伴的な自尊感情,
であり,
真の自尊感情,
ではない,というのである。「真の自己」ということを軸にすることで,自我関与自体が,「真の自分」ではない,他者や状況に捉われている,としているように見えてならない。著者らは,実験で,
「ひとつのグループは自我関与,すなわち自己を脅かすような圧力によって動機づけられており,他のグループは課題関与(task involvement),すなわち活動そのものに対する興味や価値によって動機づけられている」
によって,「自我関与が課題に対する内発的動機づけを低め,被験者は多くの圧力や緊張,作業のできばえへの不安を報告する」とし,
「自我関与とは希薄な自己感覚のうえに構築されるものであり,自律的であることを妨げるように作用する。」
「自我関与は内発的動機づけを低減するだけでなく,…学習や創造性を損ない,柔軟な問題解決を必要とするあらゆる課題での作業成績を低下させる傾向がある。」
等々とする。しかし,
(何かに)とらわれる,
という言い方をするか,
(何かに)こだわる,
という言い方をするか,
(何かに)気を取られる,
という言い方をするかの違いは,「真の自己」というものを仮定するせいではないのかという疑問を拭えない。心理学に造詣がある訳ではないので,自我関与の定義をいくつか拾ってみる。
「特定の作業,状況ないし対象を自我にとって重要なものとみなす態度,またそのような態度を生じさせるようななんらかの事態ないしは関係をさす。このような関係が存在するとき,人はその作業を遂行し,その状況を維持し,ないしはその対象との接触を保つように努めかつ行動する。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)
「われわれが行動する場合,しばしば自分の責任だ,自分の仕事だ,という意識をもつことがあり,自分の身内だ,自分の家だ,という態度を示すことがある。このように,私が,私の,と考える態度を《自我態度》といい,行動にこの態度がふくまれているとき,〈自我関与〉と称する。〈自我関与〉の概念によって,人間の行動には自我が入っているときとそうでないときとでは甚だしい差があること,物事の判断には自分に関係があるときには純粋に客観的に行われないという事実を説明することができる。」(『心理学小辞典』)
「個人がある問題,人物などについて心理的に深くコミットしている状態。対象が自己の中心的価値と関わっていたり,対象との同一視が行われている場合に自我関与が生じているという。自我関与の対象が人である場合,その相手の自分に対する言動や,相手に対する第三者の言動などが,自らの自尊心や感情などに深く影響する。…社会心理学の態度理論の文脈では,態度対象への自我関与は態度と行動の一貫性を高め,説得への抵抗を強める。」(『心理学辞典』)
ある面,さまざまな事柄に関して,「自分の責任」「自分の仕事」「自分の問題」と,自身に関わるものとみなす,というのを,自我関与とすると,コミットメントそのものは自我関与なくしては成り立たないのではないか。(ある文脈のなかで)それに深くコミットメントするのもまた自己の一面であるとみれば,自我関与はマイナスとは限らない。第一,役割意識というか当事者意識(あるいは目的意識,問題意識を加えてもいいが)というものは,客観的ない意味ではなく,主観的な意味づげによる,目的や目標への自我関与がなければ成り立たない。あるいは,
有能感,
というか,
自己効力感,
そのものが,自我関与なくして成り立つものなのか。しかし,行きついた,
http://cocoru.jp/archives/560
に,こうあった(この他にもいろいろ設定の仕方はあるようだが)。
「目標の設定の仕方は、大きくわけて3つ。
1、自我関与的目標
2、課題関与的目標
3、課題回避的目標
1の自我関与的な目標を持つ人は、人からの高い評価、好ましい評価に焦点を当てます。その逆にある低い評価、好ましくない評価は得ないよう努力します。このような人は自分がいかに賢いかを示すことに関心が高まります。
2の課題関与的な目標を持つ人は、課題の達成自体に関心がある為、課題をどれだけこなせたか、課題から何を学んだかに意識が向きます。
3の課題回避的な目標を持つ人は、努力することを惜しみ、何もしないでおこうという意識が働きます。
この3つの中で最も好ましいとされる目標設定は、課題関与的目標だとみなされています。」
これが,心理学の世界では常識らしい。つまり自我関与的であることで,「おれがおれが」と,おのれの(他者からの)評価や(他者との)位置づけにこだわり,課題そのものによる自分の学習や成長にコミットメントしない,というところから内発的動機づけではなく,随伴的というのだろう,とは不承不承納得するがいまひとつ腑に落ちない(とは,思わず,僕自身が自我関与が強いと言っているようなものだが)。
どうしても,こういう考え方の背景自体に,デシ的な(自律的)自己の中心は変わらないという牢固とした概念の前提があり,人は,文脈次第で変わる,つまり関係性の中で,自我関与的目標を持ったり,課題関与的目標を持ったり,場合によっては課題回避的目標ををもったりするものだという,当たり前の振幅ある人間像のほうに,今日的には真実があると思えてならない。
参考文献;
エドワード・L・デシ&リチャード・フラスト『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ 単行本』(新曜社)
宮城音弥編『心理学小辞典』(岩波書店)
中嶋義明他編『心理学辞典』(有斐閣)
宮本美沙子扁『達成動機の心理学』(金子書房)
宮本美沙子他編『達成動機の理論と展開』(金子書房)
http://cocoru.jp/archives/560
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40046/1/Honbun-6228.pdf
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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