陰徳


陰徳とは,

人に知られないようにひそかにする善行。隠れた,よい行い,

を言う。

陰徳あれば必ず陽報あり,

という使い方をする。

『故事ことわざ辞典』

http://kotowaza-allguide.com/i/intokuarebayouhou.html

には,

「人知れずよい行いをする者には、必ずよい報いがあるということ」

とある。『淮南子』に,

「夫陰徳有者必陽報有、陰行有者必昭名有」

とあるそうだが,

陰徳は末代の宝
とか
陰徳は耳の鳴る如し

とか,「陰」行だの「陰」徳を尊ぶのは,昔のことかもしれない。陰陽については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD

に譲るとして,『易経』に,

「戸を闔(とざ)すこれを坤と謂い,戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い,一闔一闢(いっひういっぺき 一たび闔(と)じ,一たび闢(ひら)く)これを変と謂い,往来窮まらざるを通と謂い,見(あら)わるるはすなわちこれを象と謂い,形あるはすなわちこれを器と謂い,制してこれを用いるはこれを法と謂い,利用出入りして民みなこれをもちうるはこれを神と謂う」

とあり,

「戸を闔(と)ざしたように静かで動かない状態はこれを坤(陰)と謂い,戸を開いたように外へ向かって動く状態はこれを乾(陽)と謂い,闔じたり開いたり,すなわち或いは陰となりあるいは陽となることはこれを変と謂」

うとある。何ごとにも収支のバランスがある。しかし,

http://ak8mans.com/inntoku.html

に,

「陰徳を積むと一言で言っても、それはなかなか大変なことです。なぜなら、『人知れず』に行いをしなければいけないし、『見返り』を望んではいけないからです。相手の為を思っての人知れずの善行であっても、少しでも見返りを期待すると、それは陽徳になってしまいます。」

バランスは簡単に崩れる。簡単なら,諺にはなるまい。たしか杉良太郎が,養子81人を育てたことが話題になったとき,

「杉さんの活動を売名行為と揶揄する方もいました…。」

との問いに,

「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ。」
「売名行為ですか? と、これまで嫌というほど聞かされてきました。もう反論する気もないけど、やったほうがいいんです。1億3千万人が売名でいいから、被災者に心を寄せてください」

と応えて,ネットで話題になっていた。広言するかどうかではなく,見返りを求めず,というところが眼目なのかもしれない。

『老子』に,

「上徳は徳とせず,是(ここ)を以って徳あり。下徳は徳を失わざらんとす,是(ここ)を以って徳なし。上徳は無為にして以って為す無く,下徳は之を為して以って為す有り。上仁は之を為して以って為す無く,上義は之を為して以って為す有り,上礼は之を為して之に応ずる莫(な)ければ,則ち臂(うで)を攘(はら)って之を扔(つ)く。故に道を失いて而る後に徳あり,徳を失いて而る後に仁あり,仁を失いて而る後に義あり,義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼は、忠信の薄にして乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)は,道の華(か)にして愚の始めなり。是(ここ)を以って大丈夫(だいじょうぶ)は,其の厚きに処(お)りてその薄きに居らず。その実(じつ)に処りてその華に居らず。故に彼れを去(す)てて此れを取る。」

とあり,「無為の徳」を上徳としているようだ。儒家の説く「徳」,意識しての徳行への批判らしく,

「下徳をさらに『上仁』『上義』『上礼』に分けて,儒家の有為の道徳の下降性を説明する…『上仁』は孔子に,『上義』は孟子に,『上礼』は荀子にそれぞれ充てて考えることができる。」

無意識のまま徳をなすこともあるし,それが自然体の人もいる。しかし,

「陰徳陽報」

で言っているのは,そういうことではないのではないか。「意識して」でなければ(しかも報いを意識しないで),意味をなさない。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015480540

に,

「陰徳とは、誰も見ていないところで徳を積んでいるという意味で、陽徳とは人が見ているところで徳を積むことで、すなわち、人が見ていない所でどこまで徳を積むかということが大切だということです。
例えば、陰徳を施している人がいて、それが何かの機会に人に知れると、パアッと世の中に現れてきます。
反対に、人に隠した悪事が何かの機会に漏れると、パアッと世の中の噂となります。
君子は人が見ていないからと行って、悪いことをしてはならないということです。
君子は平素『その独りを慎む』要があり、誰も見ていない時ほどきちんとしている必要があり、と言っています。」

とは,上述の杉のことを考えあわせることができる。

「老子によりますと、徳の行為には、さらに上徳と下徳の二つに分類できる、と言うのです。下徳というのは、『徳を積もう』『徳を積まなければならない』と自我意識をもって徳を積む行為ですが、上徳というのは、そうした自我意識を持たないで、少しも報いを求めずに無為にして人を愛し、無為にして善の行為をすることです。そして、聖人は上徳を行なう、と老子は説いているのです。」

と,できないから,徳行を積むべく意識する。積むこと自体が目的化していいのであろう。

陰陽.png

陰陽を表す太極図


孔子の言う,

「郷原(きょうげん)は徳の賊なり」

と。「郷原」とは「えせ君子」(吉川幸次郎)という。「君子」は難しいが,

「徳は弧ならず」

が,本来の含意とは違うかもしれないが,「陽報」をイメージさせる。

http://www.huffingtonpost.jp/krithika-varagur/mother-teresa-was-no-saint_b_9658658.html

で,最近,聖人に列したマザー・テレサの素顔が暴露されたが,ことほど左様に,





は,難しい。ただここまで書いて,念のため,「徳」の字を調べてみた。

「原字は,悳(とく)と書き,『心+音符直』の会意兼形声文字で,元,本性のままの素直な心の意。徳はのち,それに彳印を加えて,素直な本性に基づく行いを示したもの」

とある。原字「悳」,直+心,が示しているところから考えると,老子が「上徳」といった意味が少しわかった気がした。それは至難だから,

「徳を失いて而る後に仁あり」

なのである。そう位置づけると,孔子の意味がまた違って見える。

参考文献;
http://ak8mans.com/inntoku.html
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)
http://spotlight-media.jp/article/160647007460420241
吉川幸次郎監修『老子』(朝日新聞社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)


ホームページ;
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今日のアイデア;
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