2016年05月26日

間違い


キャスリン・シュルツ『まちがっている―エラーの心理学、誤りのパラドックス』を読む。

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本書の原題は,

Being Wrong

であり,サブタイトルが,

Adventures in the Margin of Error

となっている。邦語のサブタイトル「エラーの心理学、誤りのパラドックス」だと,間違いではないかもしれないが,焦点がずれる。

本書は,通常の「エラー」「錯覚」「勘違い」の本と違うのは,人が「間違った」と,認めないときも,認めたときも,その状態で起きる内的反応に焦点を当てていることだ。その意味で,

Being Wrong,

とは言い得て妙,「間違っている」と訳すと,微妙にずれる。多く,間違うことを,

「ただ恥ずかしい愚かなこととされるだけではない。無知で,怠惰で,精神的に可笑しくて,道徳的に堕落しているとみられることもある。」

しかし,

「間違いをそんなふうに見ることこそが,何より間違いなのかもしれない。それは私たちのメタミステーク(誤りに関する誤り)だ。私たちは,間違っているということの実態について誤解してしまっている。間違うというのは,頭が悪いことのしるしどころか,人間の認知能力の要にあることだし,道徳的な欠陥どころか,思いやり,前向きの姿勢,想像力,自信,勇気といった,最も人間的でほめられるべき性質とも切り離せない。間違いは,無知や頭の固さのしるしなのではなくて,私たちが学習して変わっていくことの根幹にある。間違えばこそ,私たちは自身についての理解をバージョンアップし,世界についての考えを修正することもできる。」

と,それが本書の底流に流れる通奏低音である。

「人の間違いがどんなに的はずれで,苦しく,つまらなくても,自分が何者であるかを教えてくれるのは,つまるところ,正しいところではなく,間違っているところなのだ。」

と。「Adventures」とあるのは,そういうところを狙うという含意がある。その意味で,著者の引用する,アウグスティヌスの,

「私は『もし私が間違っているのなら,私は存在する』と答える。存在しないものは間違いようがない。したがって私が間違っているなら,私は存在せざるを得ない。そして,私が間違っているということが私の存在を証明するなら,自分の間違いを見ることが,私の存在を確かめるのであって,私が存在すると考えることは間違いようがないではないか。」(『神の国』)

を引用する。しかし,それは間違いを認めたときだ。誤っている時,

「誤りが見えない(エラー・ブラインドネス)」

状態にある。間違いが何であれ,自分には見えない。しかし,誤りに気づいた時,

「一人称単数現在形では,誤りは文字どおり存在しない」。

自分が間違ったと気づくとは,自分では,

「I was wrong」

としか言えない。なぜなら,

「現在進行中の誤りは知覚できない」。

だから,誤りを,認めない。

「あることを,それが正しくないのに正しいと信じることだ―あるいは逆に,それが正しいのに正しくないと信じることだ。」

あるいは,

「私たちが正しいと感じるのは,自分が正しいと『感じる』からだ。私たちは正確さの指標として,自分自身の確信を使う。…私たちの確信は,内面にとくに鮮明な像が存在することを反映する」

から。そして,著者は,「間違っているのは,…必ず何かの信念」だと言い切る。さらに,

「自分が抱く信念は,自分の正体と不可分のこと」

であり,そこには,その人の振る舞い,知識,経験を含める。著者は,

「私は『信念』という言葉と『理論』という言葉を,…ほとんど同じものとして使っている。」

というとき,人の言動・意思決定を左右するものも,結局「信念」(違う言い方をすれば先入観)と言っているのに等しい。そこで,例に引いているのは,グリーンスパンの間違いの原因なのである(グリーンスパンは「世界のモデル」という言い方をしているらしいが)。そして皮肉を込めて,こう言う(これはそのまま黒田日銀総裁にも,アベノミクスを喧伝するわが国の首相にも当てはまる)。

「それはすべて,グリーンスパンの自由市場哲学と同じく,世界に関するモデルなのだ。…世界のモデルとは地図であり,基本的には信念もそういうもの,つまり,私たちの物理的,社会的,感情的,精神的,政治的地形を頭の中に再現したものだ。」

しかし,著者の関心は,その是非を言うことにはなく,

「思想としての間違い,経験としての間違い」

であり,本書では,間違いを,

「外部の現実からの逸脱か,自分が信じていることの内側からの逆転か」(あるいは「内面にある世界像と実際の世界とのずれ」「何かについて自分のもっているイメージと当のものとのずれ」)

を軸にしながら,

「何かの痛い思いをした人の話を中心にして構成されている。そこには,錯覚,手品師,コメディアン,薬物による幻覚,常時,海辺での不慮の事故,奇妙な神経学的現象,医療事故,司法の失態,娼婦との結婚がもたらしうる結果,なげかわしい世界的な失敗,アラン・グリーンスパンなどの話がある。」

それを,

第1部 私たちが間違いについてどう考えているか,
第2部 誤りの起源,
第3部 どうして間違うのか,間違ったときどう思うのか,
第4部 誤りの受け入れ

と追っていく。そして最後に,

「誤りをまさしくギフト―豊かで他に代えがたいユーモア,芸術,ひらめき,自分らしさ,変化の元―とみることを促す。」

そして

「間違っていることの快感でしめくくる」

と著者は言う。しかし,

「私たちは文化として,『私は間違っていました』と言うための基本的な技能を身に着けていないのだ。(中略)逆に,私たちは自分の間違いを認めることに対する代替手段を二つ修得する…。一つはささやかながらも巧みな追加条項。『私は間違っていましたけれど…』―この『…』は,自分が実はそれほど間違っていないことを言う,見事に想像力あふれる説明で埋められる―…。もう一つは(リチャード・ニクソンがウォーターゲート事件で,あるいはロナルド・レーガンがイラン・コントラ事件で用いたことで悪名高いが),もっと効果がある。『いくつかの誤りが犯された』と受動態で言うのだ(誰が犯したかは伏せられる)。このいつまでもすたれない言い方が見事に明らかにするように,誤りを処理する方法は,それを自分のものとは認めないことなのだ。」

その言わんとするところは,

(誤りを)認めるときには,新たな視界が開くのに,

である。著者の示す「誤りを認める」処方箋は,著者自身がありふれたと言う通り,ささやかなものだ。

「聞く耳をもつことは,自分の間違いやすさを自分の生活の中に入れる余地を作る。…しゃべるのをやめることで,十分,他の人の見方や自分の考え方についての見方を変える」

「自分が間違っている可能性を認める唯一の方法は,しばらく自分を強硬に弁護するのをやめることなのだ。」

しかし,誤りをガンディの,

「自由はそれが過誤を犯す自由も含んでいなければ,もつに値しない」

という言葉を,

「自由は,過誤を犯す権利を含んでいなければ自由ではない」

と言い替える。そして,

「誤るとはさまようことで,さまようことは世界を発見する方法であり,…思索にふければ自分自身を発見する方法なのだ。」

という著者の言葉は印象的だ。だから,

「へまをするとは冒険を見いだすことだ。」

と,ある意味,

「間違うことは,自分が自分から疎外される」

ことだとするなら,それは,自分自身の発見にもつながっていくはずである。

参考文献;
キャスリン・シュルツ『まちがっている エラーの心理学、誤りのパラドックス』(青土社)


ホームページ;
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posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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