2016年06月04日

後藤又兵衛


福田千鶴『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』を読む。

後藤又兵衛.jpg


著者は,「あとがき」で書く。

「いざ調べ始めると,案の定,わからない。というより,納得いかないことばかりだった。特に播磨後藤氏と又兵衛との関係について,通説で言われていることは江戸時代になってから創られたものと確信するにいたった。諱からして,又兵衛が生存していた時期に基次を名のった形跡はない。」

つまり,

後藤又兵衛基次

といわれている,「諱」すら確かではないのである。しかし読みながら思ったことは,この時代,

来歴,

など無用の時代だったのではあるまいか。その人本人の器量だけが重要で,どこの由来で,どういう出身なのかが問題にされたのは,平和な江戸時代であり,二世三世が跋扈し,どういう家柄かだけが問われる今日は,個々人の才能にとっては,生きづらい時代なのかもしれない。思えば,徳川家だって辿れば,どこぞの乞食坊主まがいであったと言われる。この時代,すべてが「どこの馬の骨」か,という時代だった。

大坂城落城後,細川忠興は,その様子をこう手紙に書いている。

「さなだ・後藤又兵衛手がら共古今これなき次第に候」

本人は大坂冬の陣直後に,

「けふニあす替候浮世之習,面白候,大身小身も分別之仕置はむし口ニて候との申事候」

という文意の手紙を残している(ここで又兵衛の諱は「正親」となっている)。

「むし口」とは,「無口」の意で,著者は,

「目の前のいつ変るともしれないことをとやかく言ったりせず。『無口』で済ませておくことが,大身であろうと小身であろうと,武士にとって分別のあるしかたではないか」

と意訳する。

後藤又兵衛画像.jpg

後藤基次像(福岡市博物館蔵)


『豊内記』を例に,侍を,

「品々ある国とともに栄え,国とともに滅びるを社稷の臣」

「国の事はともあれ,善にも悪にも主君次第に成りゆくを譜代の臣とも,重代の家人」

「渡り者にて善き国へ身を寄せ,悪しき主君を去るを渡り奉公とも客臣」

とにわけ,

「又兵衛は故郷の播磨を去ったことで社稷の臣としての道を失い,悪しき主人長政のもとを去ったことで譜代の臣として生きる道をも否定した。残る生き方は,渡り奉公人の世界のみであった。そうした渡り奉公人の世界に生きればこそ,その渡り奉公人の『花時』が終焉を迎えようとしているなかで,又兵衛は最後の大きな夢を託せる人物として豊臣秀頼を選んだのである。」

その秀頼はというと,徳川側が流した虚像を剥がすと,

「最終決戦である五月七日未明に秀頼が先手に出陣して下知すれば軍勢の勇みとなり,たとえ敗軍しても秀頼が天王寺を墓所とする覚悟を究めていれば,如何なる弱兵といえども秀頼を観てて逃げたりはしないので,比類なき前代未聞の一戦を遂げるべき」

と真田信繁が主張したのも,

「勝ち負けではない。比類なき前代未聞の一戦を遂げ,色あせることのない名を末代まで残すことにこそ,定めなき浮世を生き,戦場を死に場所と思う中世人(戦国武将)にとっての最後の夢があった。命を預ける。そして,その命を預かる。これをつなぐものが『器量』である。そして,最後まで運命をともにする。そのような人物に出会えたことに生きていた証をみるのである。」

とされる秀頼は,最後に,

「運命早究りたり,ながらへてわが世の衰えを見玉わんより,同じ道に急ぎ後世を楽しみ玉ふべし,百年の栄華も一睡の夢と成り果てる習いなり」

と,自害を引きとめる母(茶々)に言ったとされる。秀頼像については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html

で触れたように,

大坂夏の陣で,細川忠興は,

「秀頼は大阪小人町近辺まで出陣し,先手は『伊藤丹後・青木民部組中』であった」

と書状で伝えている。この地は,

「徳川方の小笠原秀政・忠脩父子が討死し,弟の忠政…も瀕死の深手を負った激戦区である。物語を辛口で評することで知られる忠興が,激戦区への秀頼の出陣を疑わなかった点は,秀頼が大阪城本丸の奥に隠れて何もしなかった軟弱者であるかのようなイメージを否定する…」

と,見直されつつある。つまり,

「秀頼は自己に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。かような武将だからこそ,又兵衛は大坂城に入り,和議後も大坂城を去ることなく,夏の陣を死に場所に選んだのである。」

翻って,又兵衛が,黒田長政のもとを去ったのは,

「主君長政に一命を預けられない,と考えたのではないだろうか。なぜなら,長政は器量のある戦国武将―預かった命を見捨てない―から,処世術にたけた近世大名―黒田家存続のためなら家臣の命も見捨てる―へと,自己のありようを変えようとしていた。それを大きく促したのは,天下泰平,徳川の世への移り変わりである。」

そのような変化は,「軽薄そのもの」と又兵衛には見えた。

又兵衛は,六尺以上あったとされる。その具足が,五男爲勝が受け継ぎ,菩提寺の景福寺(鳥取市)に納められた,

日月竜文蒔絵仏胴具足,

が伝来し,現在大坂城天守閣にある。

大坂陣中では,

「白黒段々の筋の幟,指物は黒に半月を描き,具足も黒で,兜の立物は獅噛(しかみ),武者羽織は,表を白色の熊皮,裏は玉虫色の大緞子,見送りに鉞を白糸にて大紋とし,纏は二重の鳥毛,上は角取紙があった。(中略)馬印は大ホオズキの提灯,使番は黄色の四半旗,家中の指物は黒一本撓い。」

又兵衛は入場に際して,中国の諸大名から三千余騎を借用した,と言う。黒い撓にそろえた兵団は,真っ赤の撓にそろえた,真田信繁と好対照であった。

最後にいくつか誤植に気付いたが,

「市川歌右衛門」

とあるのは,

「市川右太衛門」

の誤りである。

参考文献;
福田千鶴『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』(中公新書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
http://www.sankei.com/west/photos/150314/wst1503140006-p2.html
福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館)


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今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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