2016年06月06日

小田原攻め


中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』を読む。

小田原の陣.jpg


秀吉の「関東惣無事令」,再三の上洛要請,北条氏直の舅に当たる家康からの要請に,迷い続けた北条が, 氏政の四男氏規の上洛,出仕を経て,天正十七年(1589)極月(十二月)上旬に,氏政・氏直が,上洛出仕するという誓約,

御請一札,

を秀吉に届け,落着する運びになっていた。懸案の,

沼田領問題,

も秀吉による,

上野の中で真田の知行地の三分の二を,沼田城とともに北条領地とし,三分の一は真田領とし,家康支配下の信州伊奈郡を真田に引き渡す,

という裁定で決着したはずであった。しかし,名胡桃城事件が起きる。このいきさつは,沼田領の三分の一の真田領にある名胡桃城を,11月3日,

「相模(北条)が信濃の真田の城を一つ取った」(松平家忠日記)

という事件が起きる。つまり,名胡桃城の城代鈴木主水が猪俣邦憲に城を奪われる事態が起きる。それを聞いた秀吉は,11月21日

「この上は,北条出仕申すにおいても,彼のなくるみへ取り懸け討ち果たし候者どもを成敗せしめざるにおいては,北条赦免の儀これあるべからず候。その意を得て,境目の諸城共へ来春までに人数を入れ置き,堅固を申し付く」

と指示した,という。しかし,この名胡桃事件,いささかきな臭い。森田善明氏も,秀吉の謀略と言っていたが,氏直は,こう弁明している。

「名胡桃城はすでに真田から北条へ渡されたものなので,奪い取る必要がない。中山の書付をみればわかる」

と。中山とは,

「中山城(群馬県東郡高山村)の城主で真田昌幸の家臣だった中山右衛門尉か,あるいは弟の中山九兵衛のどちらかである。中山城も名胡桃城とおなじように,沼田・岩櫃の中間にあり,越後道(旧三国街道)を抑えていた。
 中山城主の中山右衛門尉は,天正十年(1582)秋に北条方となっていた津久田城(群馬県渋川市)を攻めたが,伏兵によって殺害された(『加沢記』)。これにより,主人を失った地侍の中山衆と他の侍衆57名は北条方に属した。
 こうして天正十年以来,中山城が存在する吾妻郡高山村周辺は北条に押さえられていたが,天正十四年九月七日に真田昌幸が奪還に成功してからは,兄を失っていた中山九兵衛尉も再び真田に属した(『沼田根元記』)。
 しかし,北条軍の勢いが増してくると,九兵衛尉は再び北条軍に追われ,やがて天正十六年11月22日名胡桃城へと逃亡し,当時の城代とかっていた妹婿の鈴木主水(重則)に介抱を受け食客の身となった。
 この九兵衛尉が,やがて天正十七年に猪俣邦憲の家臣にそそのかされ,名胡桃城代だった鈴木主水を城から追い出し,追い出された主水は沼田の正覚寺で自刃して果てたというのが『加沢記』の『名胡桃事件』といわれるものである。」

と,著者は書く。当然猪俣邦憲の独断でできるはずもなく,この背後には,北条の意志,小田原城の氏政・氏直親子の意志がある,と著者は見る。これを,

「中山右衛門尉が北条に攻めたてられた天正十年の春,名胡桃城主でもあった中山氏は北条との間で名胡桃城を引き渡すという合意を交わしていた可能性がある。」

それを証にして,「奪い取ったのではない」と弁明していたことになる。確かに,北条方には,

「名胡桃城を奪い取ったという認識はなかった」

のかもしれないが,事実上,秀吉の沼田裁定を反古にしようとしたことになる。

しかし,裁定で沼田問題が落着したはずの十月,秀吉は,大規模な軍事作戦を指示しているのである。

「一,兵糧奉行に長束正家,ならびに小奉行十七人を命じる,
 一,年内に代官潟り二十万石を受け取り,来春早々ねで駿州江尻・清水へ運送してくらを建てて入れ置き,惣軍勢へ配分すること,
 一,黄金二万枚を受け取り,勢州・尾州・三州・駿州で八木(米)を買い調え,小田原近辺の舟着へ届け置くこと,
 附(つけたり),馬二万疋の飼料を調え置き,滞りなく与えること」(『碩田叢史』)

さらに,軍役定書があり,

「一,来年の春に関東に攻め込むための軍役のこと,
 一,五畿内は半役,中国地方は六人役のこと,
 一,四国地方から尾張までの間は六人役のこと,
 一,三河・遠江・駿河・甲斐・信濃は七人役のこと,
 右,軍役書付けのように,来三月出陣して,小田原北条を攻め滅ぼす,忠勤に励むように」

と定めている。これを,著者は,

「これを北条を滅ぼすための戦争準備だったと解釈するのは早計ではないだろか。長年の懸案だった沼田問題を解決して北条氏政の上洛が決定し,いよいよ関東の統治上の処置に取り掛かろうとする準備だったのではないだろうか。
 この軍事行動は『北条を攻め滅ぼす』と強圧的に表現しているものの,内実は沼田領を含めた関東の今後の統治上の政策を平和裏に確実に進めるための軍隊派遣であり,北条攻略を目的とした軍隊派遣ではなかったと思われる。」

と書く。是非はわからぬが,素人ながら,

「秀吉の関白就任後に行われた四国・九州への出兵と国分けで,一貫して共通していたのは,当事者の意見を聞き届け,最低によって平和裏に解決しようとした」

という「惣無事」の概念にとらわれ過ぎているように見える。敢えて,氏政の上洛前に軍令を出すという意図は,少し違うのではないか。少なくとも,家康が,氏政に上洛を促す手紙の中で,

「北条領を望んでいない」

と言い訳するほどに,天正十六年段階で,

「坂東の北条殿(の領地)が家康の領国」(ルイス・フロイス)

になると噂さされていたこともあり,家康移封は既定路線だったとみるのが順当ではないのか。だからこそ,本来沼田城の付城として作られた名胡桃城は,北条にとって戦略上重要な意味,つまり,

「北条方の沼田城を監視する付城の役目をしていた名胡桃城を抑えることにより,それまで越後道への警戒が手薄状態だった状況を克服し,三国峠を越えてくると予想されていた北国勢(上杉・前田を主力とする軍勢)の最前線となることを回避する作戦だった。」

ということになる。いずれにしろ,秀吉方に口実を与えるという行為が持つ,重要性と,秀吉の動員する軍事的・経済的力量を見積もりそこなった,という意味では,この段階で,北条方は戦術にこだわって,戦略を誤った,というべきなのかもしれない。

では,なぜ,秀吉は,北条を打ち滅ぼす,という選択をしたのか。

「小田原攻めを通し,秀吉が民衆に対して取りつづけた対策があった。それは,『奴原』と呼ぶ侍たちに対しては容赦しなかったが,非戦闘員の一般民衆に対しては寛大な姿勢だった。
たとえば,天正十三年(1585)紀州・太田城(和歌山市)を攻めたとき,『各地にいる悪人の主だった奴らを選んで首を切り,残った百姓やそのほかの住民の妻子以下は助命するように』と,侍たち五十人以上が打ち首となり,百姓の家族は助命された(『太田文書』)。
これはあたかも中間搾取層(棟梁の奴原,侍衆)の否定と同時に,平百姓といった土地を所有する農民の救助を意味した。
 戦国大名の家臣たちは,その大部分が郷村に居住して,直接的に村人たちを支配していた。彼らは在地領主として,農家(名子と呼ぶ反自立的な農民を従えた一軒の農家であったが,税収取の中に組み込まれていた。)とは徴税関係によって結ばれていた。
 大名たちは,こうした家臣(在地領主・中間搾取層・奴原)と,農家との徴税関係をみとめていた。
 ところが秀吉はそうした関係を断ち切り,家臣たちを郷村から切り離し,それまでの領主的権限を剥奪しようとした。」

この延長に,各大名に課す軍役の基準となる「太閤検地」,さらには,戦国大名の鉢植大名化がある。父祖伝来の土地にいる諸大名,特に,家康を北条の関東に,上杉を会津に,伊達を仙台に,と鉢植えのように戦国大名を移封していくためには,北条が攻め滅ぼされなければ,大名の鉢植化の将棋倒しが始まらなかった。僕はそう見たが,如何か。

参考文献;
中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』(歴史新書y)
森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(歴史新書y)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:53| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください