2016年06月07日

恠異


河内将芳『落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都』を読む。

落日の豊臣政権.jpg


本書は,文禄五年(1596)閏七月十二日(から十三日の深夜)の,文禄大地震から書きはじめる。小田原攻めから六年後,関ヶ原合戦まで,あと四年の時期である。

この地震は,

「有馬―高槻断層帯,さらに,淡路島では東岸の複数の活断層や先山断層が活動」

したもので,その規模も,

「内陸の活断層が引き起こした地震としては最大級に近く,マグニチュード七・五以上でマグニチュード八近い値と推測」

される大規模なものであった。しかも余震が翌年まで続くのである。この地震で最も大きな被害を受けたのは,

伏見城(指月城),

で,醍醐寺三宝院門跡義演の『義演准后日記』によれば,七月十三日の条に,

「伏見のこと,御城御門・殿以下大破,あるいは顛倒す,大殿守(天守)ことごとく崩れて倒れえわんぬ。男女御番衆数多(あまた)死に,いまだその数知れず,そのほか諸大名の屋形,あるいは顛倒,あるいはあい残るといえども,かたちばかりなり,そのほか在家のていたらく,前代未聞,大路も破裂す,ただごとにあらず」

と記す。また,吉田社の梵舜という僧侶の『舜旧記』には,

「大地震,子の刻で数万人死す,京中寺々所々崩れ倒る,第一伏見城町已下転倒しおわんぬ,大仏築地・本尊破裂しおわんぬ,北野経堂・東寺金堂(食堂カ)以下倒れると」

とあり,

「もっとも大きな被害を受けたのが,当時豊臣秀吉(羽柴秀吉)が主要な虚点のひとつとしていた『伏見城町』(伏見城(指月城)とその城下町)と,秀吉によって造立された『大仏』(東山大仏)の『築地』(築地塀)や『本尊』だった」

のである。

社会を震撼させたこの地震が引き金で,「地震大凶ゆえ」と,文禄から,

慶長,

へと年号が改元される。著者は言う。

「これからわずか三年後に秀吉も亡くなってしまうことを考えたとき,この地震による『伏見城町』と『大仏』『本尊』の崩壊は,秀吉とその政権,いわゆる豊臣政権の崩壊のはじまりを暗示するものになったであろう。」

と。そして,

「そのような崩壊は,この地震によってのみ突然はじまったわけではなく,それを準備する時代の動きも徐々に用意されていったのではないかと考えられる。本書は,そのような時代の動きを文禄元年から五年という,文禄の年号を冠する時期にあえて限定してみようとするものである。」

と意図を説明する。

天正から文禄に改元された天正二十年(1592)は,小田原北条氏が滅亡し,奥羽仕置も終り,

「もはや秀吉とその政権に歯むかう敵は存在せず,天下統一がなしとげられた時期にあたる。つまり,権力としては絶頂期をむかえていたころだが,しかしながら,絶頂期こそ,崩壊の序曲がはじまるというのも世の常であろう。」

と,本書が,文禄年間(1592-96)というかぎられた時期に注目する理由を述べている。ちょうど文禄の役という対外戦争が始まるが,本書は,

「そのような対外戦争や,あるいは政権そのものに焦点をあわせるのではなく,むしろ,その外側にいる人びと,とりわけこの時期,秀吉とその政権下にあった京都という都市に住む人びとに焦点をすえて,時代の動きというものを見ていきたいと考えている。」

と述べる。いわば,

時代の雰囲気,

というものをつかんでみようとする試み,といっていい。その反照になっているのは,

桃山の京都,

を,

弥勒の世,

とした,林屋辰三郎氏の言葉にある,

豪華絢爛な桃山時代,

というイメージや,『大かうさまのくんきのうち』(太田牛一)の自画自賛するような,

ありがたき御代,

ではなかった時代の雰囲気を,伝えようとしている。

象徴的なのは,文禄四年(1595)十月の,宇喜多秀家女房(前田利家の娘)の,

狐憑き,

騒動と,秀吉政権による,

野狐狩り,

である秀次切腹,秀次妻子の処刑から二カ月後のことである。この翌年六月二十七日,京都周辺で,

降砂,

あるいは,砂ともされるが,

「土器(かわらけ)の粉のごとくなるもの」(『義演准后日記』)
「こまかな灰」(イエズス会宣教師)

が,「四方曇りて雨の降るがごと」くに降り,七月十二日に,

大地震,

が起こり,翌々日十四日には,

降毛,

が起きる。

「白くて長い毛髪の大量の雨が降った…老婆の毛髪と何らかわっていない」(『義演准后日記』)

ものが,正午まで降り続いた(この砂と毛は浅間山噴火が原因らしいが)。こうした,

「恠異(かいい)」

について,義演は,

「不可思議なる恠異,ただごとにあらず」

と,日記に書く。そして,

「まことに百姓の労苦このときなり,地検をせられ,あまつさえ昼夜普請に責めつかわれ,片時も安んずることなきなり,よって土を雨(ふら)すは余儀なきか,ついでに去年関白秀次謀反,誅せられ,今が数万人をもって,伏見山を開く,衆人群集す,まことに毛を雨するゆえなり」

と,秀吉と政権への批判を書きとめている。秀吉は,地震直後にもかかわらず,大破した伏見城を指月山から別の木幡山へと移し再建しようとしていたのである。しかも再建を思い至ったその日に,

降毛,

という恠異が起きたことについての上記義演の解釈は,ひとり彼のみではなく,

「『東寺寺僧』による『太平御覧』や『随書』など漢籍を『選出』しての解釈」

であり,多く共有されていたらしいのである。その解釈は,

「秀次事件や伏見城再見などに対する『天』のふるまいにほかならないと解釈されていたことをふまえたとき,人びとのなかで,秀吉やその政権が『天道,すなわち神様』や『天』から見放されつつあるのではないかという思いはもはや押さえがたいものになっていたことであろう。」

と,著者は書きとめる。秀吉死去の二年前である。『当代記』の,

「太閤秀吉公,日本小国には不相応の才人たり,しかるところかくのごとくの人の苦労を顧みたまわざること,ときの人不審」

という記述が象徴している。

「資料の表側にはなかなか出てこない闇の部分に焦点をしぼった」

本書は,確かに,政権末期の豊臣時代の暗い破滅の兆候を,のぞき見させてくれている。

参考文献;
河内将芳『落日の豊臣政権: 秀吉の憂鬱、不穏な京都』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)


ホームページ;
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今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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