2016年06月10日

社会心理学


小坂井敏晶『社会心理学講義-〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』を読む。

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社会心理学に関する書籍は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398486307.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163239.html

等々,何冊か読んだが,どれも薄っぺらな感じがして,不満であった。そのわけを,本書を読んで,何分かわかった気がする。それは,今日の社会科学,あるいは広く科学そのものの陥っている陥穽でもあるように見える。

著者は,「あとがき」で,

「本書を綴り始めた頃,『社会心理学の敗北』というタイトルを考えていました。」

と書くほど,現在の社会心理学の「矮小な学問になったしまった」現状に批判的である。

「人間という存在を理解するために社会と心理の知見の統合をするという最初の野心を忘れ,心理学の軒を借りて営業する小さな屋台になり下がりました。自然科学に憧れ,模倣するうちに技術的細部にばかりこだわり,本来の使命を忘れたのです。」

と書く。本書は,著者が,「はじめに」で,

「勤務するパリ第八大学で修士課程の学生を対象に行った講義を基に構成しました。社会心理学講義とはいえ,概説や入門書ではありません。影響理論を中心に話を進めますが,個々の内容よりも社会心理学の考え方について批判的に検討します。」

と,書く通りの展開である。

「二つの重心を選びました。生物や社会を支える根本原理は同一性と変化です。ところで,この二つは矛盾する。あるシステムが同一性を保てば変化できないし,変化すれば同一性は破られる。同一性を維持しながら変化するシステムは,どのように可能なのか。」

このテーマを軸に,

認知的不協和理論のレオン・フェスティンガー,

少数派影響理論のセルジュ・モスコヴィッシ,

という二人の社会心理学者を中心に,その「発想」を学びながら,著者の問題意識を展開する。そこには,サブタイトルの,

「〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉」

が関わる。

「閉じたシステムとして社会を把握したフェスティンガーと,開かれたシステムとして理解したモスコヴィッシ。普遍的価値に支えられた〈正しい世界〉という全体主義,システムを内部から切り崩す少数派の存在意義…。」

精しくは,本論を読んでいただくほかはないが,

「科学においても哲学においても大切なのは疑問を提示し,それに何らかの答を与えることです。」

という著者らしく,著者の強烈な疑問で,本書は成り立っている。

「本書は社会心理学を俯瞰する教科書ではありません。人間を理解するために,どのような角度からアプローチすべきか。それを示唆するのが本書の目的です。」

「人間を知るためには心理と社会を同時に考慮する必要がある。というよりも,社会と心理とを分ける発想がすでに誤りです。問いの立て方や答の見つけ方,特に,矛盾の解き方について私が格闘した軌跡をなぞり,読者と一緒に考えたい。」

疑問,

とは,

「ふつう信じて疑わない常識の見直し」

であり,当たり前としていることを疑うことである。著者は,

「答より問いの立て方」

である,という。それは,

どう仮説を立てるか,

ではないか。仮説とは,

「暫定的な説明」

であり,

実験結果の予測ではない,と著者は言う。僕は,仮説を,

仮の説明概念,

と呼んでいる。STAP細胞騒動で露呈したのは,日本は,

仮説のもつ重要性,

逆に言えば,

問いを立てること,

の重要性にはほとんどか関心がない,というあきれ果てた現状だった(確かめられないままに終るのかもしれないが,小保方氏の仮説は面白いと思っている。だからこそ,検証されないうちに,ハーバード大は特許申請に動いた。彼らは仮説の持つ重要性に気づいている)。

「私の立ち位置についても少し説明します。科学的思考は客観性を重んじますが,それは中立性とは違います。学問においても政治においても中立な立場は存在しない。」

だから,著者は,こう書くのである。

「学問の背景には人生がある。考察の陰に感情や苦悩あるいは叫びが隠れている。テーマの選択にもそれは表れるし,自らとの対話を通して出てくる疑問と,それに対する答とを昇華した形で書かれる文章の行間には研究者が悩んだ軌跡が読みとれるはずです。当人の実存に無関係なテーマで人文・社会科学の研究が可能だとは私には信じられません。」

その著者は,フランスで勉強し始めた頃,

「何を研究しているかではなく,誰を研究しているのか」

と,日本の学者や学生から聞かれて当惑したと書く。そこには痛烈に批判が込められている。

「デカルトやウィトゲンシュタインに向かって,『先生は誰の専門家ですか』と尋ねるでしょうか。…あなたにとって,主体とは,時間とは,責任とは何なのか。これらの問いに対して,あなたはどうアプローチして,どのような答えをだすのか。本当に大切なのはそれだけです。」

この背景には,当然多くの日本の,人文・社会科学系の学者が,「誰かについての研究者」であり,哲学者ではなく,(カントやヘーゲルなどの)哲学者研究者でしかないという現状がある。

久しぶりに,肉体のある,というか,肉声のある論説を読んだという印象がある。こういう一節がある。

「モスコヴィッシはなぜ少数派影響理論を考えついたのでしょうか。…モスコヴィッシは構成主義的な発想をし,世界や歴史の根元的な恣意性あるいは虚構性を熟知していた点がその理由のひとつだと思います。つまり世界に普遍的な真理はない。我々の目に映る真理は人間の相互作用が生み出すという世界観です。真理だから同意するのではない。悪い行為だから非難するのでもなければ,美しいから愛するのでもない。方向が逆です。同意に至るから真理のように映る。…共同体での相互作用が真・善・美を演出するのです。
 社会心理学者は集団現象を,個人の心理メカニズムに還元して把握する。それどころか,社会状況におかれた個人心理の分析のみが社会心理学者の仕事だと考え,集団現象を研究対象に含めない学者がほとんどです。モスコヴィッシの反論を聴きましょう…。
『もっともよくある研究アプローチは,まず個人の表象を個別に分析する。そして次の段階として,集団内におかれた個人の表象を検討する。しかし集団から隔離された個人などは抽象的に考えられるだけで実際には存在しない。だから,これでは問題から逃げているだけだ。もちろん二種類の事象を区別する必要はある。しかし往々にして信じられるように,(a)個人表象と,(b)集団表象に分けるのではなく,(a)集団表象と,(b)集団におかれた個人の表象とに区別すべきである。』」

こんな当たり前のことを,と思いつつ,不意に,花田清輝が,武田戦法について書いていたことを思い出した。

「そもそもあの『風林火山』という甲州勢の軍旗にれいれいしくかかれていた孫子の言葉そのものが,孫子よりも,むしろ,猿のむれに暗示されて,採用されたのではなかろうかとわたしはおもう。『動かざること山のごとく,侵掠すること火のごとく,静かなること林のごとく,はやきことかぜのごとし。』-などというと,いかにも立派にきこえるが,つまるところ,それは,猿のむれのたたかいかたなのである。(中略)
猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。」

妙に,この痛烈な皮肉が響きあうのである。

参考文献;
小坂井敏晶『社会心理学講義-〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』 (筑摩選書)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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