正言若反は,
せいげんじゃくはん,
と訓む。先日ある本を読んでいて知った。
http://www.fukushima-net.com/sites/meigen/1788
に,
「真理にかなった正しい言葉は、一見真実とは反対のことのように聞こえる。という意味で、老子特有の逆説的言い回しです。水を例にとりまして、柔能く剛を制す、というように真実ではないように見えるかもしれないが、本当は正しいのである。」
と載る。『老子』第78章にある。
天下に水よりは柔弱(にゅうじゃく)なるは莫(な)し。
而うしても堅強を攻むる者、之に能(よ)く勝(まさ)る莫(な)きは,
其の以て之を易(か)うる無なきをもってなり。
弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは,
天下,知らざる莫きも,能く行なう莫し。
是(ここ)を以て聖人は云う,
國の垢(あか)を受くる,是れを社稷の主(しゅ)と謂い,
國の不祥を受くる,是れを天下の王と謂う,と。
正言は反するが若(ごと)し。
正言とは,
道理にかなった正しいことを言うこと,またはそのことば,
という意味で,辞書(『広辞苑』)には,
「正言はこれ重し」(『文明本節用集』),
が,『大辞林 第三版』には,
「真の正言は面白からぬ物に候」(『近世紀聞』)
という用例が載る。ただし『大言海』には載せない。
しかし,この文意,よく通らない。手元で,
http://d.hatena.ne.jp/yasushiito/20101217/1292511600
と
http://www.fukushima-net.com/sites/meigen/1788
に当たると,
柔よく剛を制す,
と同じく,世の常識で想定しているのとは反して,
国の汚辱を引き受ける者,これを国の主といい,
国の不幸を引き受ける者,これを世界の王者という,
というところは,文言の解釈はともかく,意味に,異同はない。しかし,最後の,
正言は反するが若し
については,
http://www.fukushima-net.com/sites/meigen/1788
は,
「正しい言葉は、常識に反しているようだ。」
と解し,
http://d.hatena.ne.jp/yasushiito/20101217/1292511600
は,
「(柔が剛に勝つように)正しい言葉には反対の作用がある。」
と解する。意味が微妙に違う。吉川監修版は,
「本当に正しい言葉は,一見真実とは反対のように聞こえるものである。」
と解し,
「聖人の言葉が世俗の常識的発言とは反対になっていながら,究極的には真実にかなっている意」
と説明する。これは,前者と一致する。しかし,聖人の挙げた例が,
柔よく剛を制する
と同じく,それが常識に反するように,
国の汚辱を引き受ける者が国の主,
であり,
国の不幸を引き受ける者が世界の王者
と対比して見せた,という意味はまあ,何とか分かるにしても,
正言は反するが若し,
は蛇足というか,文脈がつながらない。確かに,
柔よく剛を制す,
と同様,
国の汚辱を引き受ける者が国の主,
国の不幸を引き受ける者が世界の王者,
というのは,常識に反している。だから,吉川版の解説には,
「ここは上に引いた聖人の言葉が世俗の常識的発言とは反対になっていながら,究極的には真実にかなっているの意。『荘子』(雑篇上冊・庚桑楚篇)にいわゆる『名は相い反して実は相い順う』である。」
としている。しかし,続いてこうある。
「ただし,『正言若反』の一句『反』は,次の章の初めの三句,『和大怨,必有余怨,安可以偽善』の『怨』『怨』『善』」と韻を踏んでいるので,これを第七十九章の冒頭に移すべきだという説もある。」
と。因みに,次章は,
大怨を和するも,必ず余怨有り。安(な)んぞ以て善と為すべけんや。
是(ここ)を以て聖人は,左契を執りて人に責めず。
徳有るものは契を司(つかさど)り,徳無なきは徹を司る。
天道は親無く,常に善人に与す。
と続く(「左契」とはてがたとして用いる割符の左半分。証文を木札に書き,左半分を債権者が持ち,右半分を債務者が持つ)。
「天道は親無く,常に善人に与す」
とは,天網恢恢疎にして漏らさず,
を指す。この頭に,
正言は反するが若し,
をもってくると,
天理は,人為に反するように見えても,
というニュアンスになろうか。それにしても,
正言若反,
は,文脈を変えると,微妙に意味を変える。「天網恢恢」については,別途触れたい。
参考文献;
吉川幸次郎監修『老子』(朝日新聞社)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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