2016年06月27日

戦国大名


鍛代敏雄『戦国大名の正体 - 家中粛清と権威志向』を読む。

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「はしがき」で,戦国大名について,

「戦国の世に生きる大名との意識はあったろうが,『戦国大名』というレッテルを貼られた武将の誰一人として,自分が戦国大名と呼ばれていることを知らない。…戦国大名とは戦国時代に使われていた用語ではなく,歴史用語としての造語である。その本質と考えられる要素で構成された概念であって,厳密に言えば,戦国大名という大名は存在しない。」

と書く。著者は,戦国時代を,

「応仁・文明の大乱(応仁元年(1467))から,室町幕府の滅亡(天正元年(1573))までの約百年間」

とする。ただ,戦国期の始まりとされる応仁の乱の戦国始期には,戦国大名は存在しないので,戦国大名の登場(北条早雲など)期以降,四期に分けて,戦国大名を分類する。

第一世代 十六世紀第一四半期 北条早雲,今川氏親,大内義興
第二世代 十六世紀第二四半期 尼子晴久 毛利元就 北条氏綱,伊達稙宗,大内義隆
第三世代 十六世紀第三~第四四半期 北条氏康,北条氏政,武田信玄,上杉謙信,伊達晴宗,今川義元,朝倉義景,大友宗麟,長宗我部元親,島津義久
第四世代 十六世紀第四四半期~十七世紀 伊達政宗,毛利輝元,佐竹義宣,島津家久,上杉景勝,北条氏直

信長,秀吉,家康は,第三世代と同時代に当たることになる。宣教師は,戦国大名を,

「山口の国王(大内義隆),豊後の国王(大友宗麟)」

と,大名を国王と呼び,その領国を,

王国,

と呼び,

「全支配権と命令権を掌握した『屋形』と呼ばれた戦国大名たちは,国の領主であり国王にほかならず,その国は屋形―国衆―小領主-農夫の身分階層と土地の分配によって構成されている」

と見ていた。しかし,第四世代は,

「前半生は戦国・織豊時代の戦国大名だが,天下人の時代に『仕置』と称した領地宛行(あてがい),すなわち安堵の朱印状によって領地に封じこめられた。」

そうした戦国大名の,

「実像を観察し戦国乱世を生きた彼らの行動規範や思考回路を探索する」

のが本書の目的である。

「大名家中における権力闘争や家臣団の内部紛争,および領域的な支配権を持つ譜代の家臣や独立性の強い一門一族との抗争など,家中の粛清」

による権力掌握プロセスを,

「粛清と王殺し」

として,第一章を始めている。下剋上,つまり,「下が上に克つ」の意味を,著者は,

「いつの時代にもある,権力闘争としての下剋上が,ことさら戦国・織豊の大名や武将の個性として解かれる理由」

を,

「毛利元就のように,守護大名と闘争して地域国家を成立させた非守護系の地頭国人らの下剋上を,戦国大名の典型とする考え方」

と,

「織豊期の下剋上(立身出世・人材登用)の代表が太閤秀吉だったように,信長・秀吉・家康らの家臣も主人にともない身分的上昇が顕著だった…。儒学者・林羅山に系図の真偽を疑われた福岡藩主黒田家にしても叱り,ほとんどの近世大名のルーツが判然としない」

と,

「十五世紀前半はに飢饉の頻発したことから,一揆の時代だった。山科本願寺の一向一揆…,対抗した法華宗の一揆が,…京中の一向宗の御堂を焼き払い,更に山科は灰燼と化し,本願寺は大阪へ移った。このような宗教一揆,宗教戦争の様相について,鷲尾隆康が『一揆の世』と嘆いた」

と,

「『俗姓凡下』と呼ばれた地侍・足軽・土豪商人ら地下人による,自由な『主取り』(主従関係を結ぶこと)や,複数の主人を仰ぐ複線的な主従関係も想定できる。ただし彼らは領主側からは,名字を持って『侍分』を自称しても,所詮『凡下』だと見下されていた。そのような身分上のボーダーラインに生きる人々が一揆の主力だった」

等々という,一種の階層のガラガラポンの様相にあることを挙げている。

そんな中で,戦国大名として権力を掌握していくプロセスを,

父子相克として,武田信虎・信玄,信玄・義信他,伊達家,島津家の内訌,
兄弟内訌として,織田信長・信勝等々,
家中粛清として,毛利元就の井上元兼一族の粛清,尼子等々,
王殺しとして,松平,大友,大内,斉藤等々,

を挙げて,

「戦国大名の軍事国家は,主に家中粛清によって構築された。『王殺し』も含めて,粛清は戦国大名の権力や権威の源泉となった。」

という。「家中」とは,

「大名の家族・親族衆,譜代・外様の家臣を大名の『家』として包括するもので,血縁・姻戚関係と主従関係,および家臣団の横の連帯によって構成された大名家の権力構造」

のことであり,だからこそ,この粛清は,

「家中や分国内で評価され認知されてこそ,権力の安定をみることができた。戦国大名の分国は,あくまでも正当な武威に支えられた軍事優先の主権国家だったのである。」

そういう戦国大名は,毛利元就の遺訓に,

「『天下御競望(ごけいもう)』など決して思ってはいけない」

とあるように,多く,

「家中と自らの領国たる『分国』を死守することに努め,天下の野望はほとんど抱いていなかった」

とされる。分国内では,戦国大名は,自らを,

公儀,

と称し,

「分国中では,戦国大名の公儀以外を排除して,大名の自力で地域国家を統治し,国家主権を形成した。」

しかし,豊臣政権が,全国制覇すると,

「豊臣政権では屈服した大名に対して,秀吉の領地朱印状をもって知行国を宛行(あてが)い,大名としての国主と領土としての分国が,列島規模の上級権力である豊臣公儀によって保証された。このような日本の国家体制のもとでは,戦国大名の自主独立した公儀は存在できない。大名間の戦争は,喧嘩と同様に私戦として断罪され,天下静謐の大義名分を掲げた統一戦争の攻撃対象となった。」

北条家は,その大義の元,二十万の豊臣軍に攻囲,押し潰された。

参考文献;
鍛代敏雄『戦国大名の正体 - 家中粛清と権威志向』 (中公新書)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:44| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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