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方の会第58回公演 作・平山陽,演出・狭間鉄,

『散り往く雪~京助と幸恵~』

を拝見してきた。いわば,言語学者金田一京助が,アイヌ研究を進めるプロセスで出会ったアイヌの少女知里幸恵との,『アイヌ神謡集』としてまとめる前後のエピソードを劇化したものだが,一方で金田一のアイヌ研究の進捗があり,他方で,少女幸恵が進学し,差別のなかで成長していく過程があり,それが交錯し,共にアイヌ研究に協働し,幸恵の『アイヌ神謡集』の上梓に至る,時系列の流れになっている。

観ながら,幸恵と京助の関係というには,その関係自体が薄いし,両者それぞれの内面的葛藤というには中途半端だ,と感じながら観ていた。それなりに,少女の儚さと哀れさはを感じさせるが,その中にある葛藤は,口に出される台詞以上には見られなかった。

しかし,観終わって,パンフレットを見たら,石川啄木をえがいた前作,『われ泣きぬれて~石川啄木~』で,金田一に守られた啄木が,

「金田一君,死んだらきっと貴方を守りますよ!」

という言葉からこの続編が,というより金田一を中心に据えるということが決まってきたようなので,あくまで,幸恵のエピソードは,金田一の仕事の一つとして膨らんできた,というようなのだ。だから,

「今作でアイヌが生んだ天才少女・知里幸恵さんと出会えたのは作品に厚みが出ました,と言いますか,金田一と並び超えてしまう存在になったのです。」

と,作者が言うように,幸恵の話は,金田一のアイヌ研究のエピソードのひとつのはずなのに,幸恵の存在感が,それを食い破った,ということなのだ,と得心し,結局,しかし,やはり幸恵の悲しみは,金田一からの(研究対象という)目線から外れていない,と感じさせられた。

僕には,

知里幸恵,

という名前にこそ,アイヌ人の屈辱と悲しみが象徴されているのではないか,と感じいていた。この名前には,

自分の本来負うべき名前を奪われ,
その上に,
他民族の名前を押しつけられた,

という,二重の意味の屈辱と悲しみがあるはずである。しかも,そういう名前を付けなければ,本来自分の土地を簒奪した,当の相手である日本国の一員として生きていけない,ということに想いを馳せるとき,朝鮮半島を植民地化したとき,日本語を強い,創氏改名として,日本人名に換えさせたのと,同じことを,北海道でアイヌ人にしていた,ということに気づかされる。

この芝居の中では,この名前のことに頓着なさげに,当たり前のように,「幸恵」と呼び,自分でもそう名乗る。しかし,

アイヌとしての名前,

があったはずである。そのことに触れていないのが,僕には,劇が始まったときから気になっていた。

祖母には,

モナシノウク,

という名がある。にもかかわらず,母は,

知里ナミ,

であり,養母となるおばは,

金成マツ,

なのであり,恋人もまた,アイヌなのに,

村井宗太郎,

なのである。おのれのアイデンティティを示さない名前と,アイヌ人としてのおのれの本性との葛藤が,名前一つとってもある。仮に,そういう葛藤が,もはやこの世代にはないにしても,それはそれで悲劇なのではないか。ネイティブアメリカンが,英語しかしゃべれないのと,似ている。その何というか,

乾いた哀しみ,

の方に,僕の関心は向かっていた。

あるいは,着物とアイヌ衣装とに着別けているところに,たぶん,作者は,その位置を象徴していたのかもしれないが,実母が着物を着,幸恵も着物,村井は洋装,おばや祖母がアイヌ衣装,とその衣服に,年代と,同化政策の痕跡をみることができる。その辺りの心的抵抗も,葛藤も,あまり触れられているようには見えず,せっかくの着別けが生きていなかった。

アイヌ.JPG


憶測で言うが,作者は,金田一の視野のなかで,つまりアイヌ研究という土俵の上で,未完のまま,弟に後事を託さざるをえない,幸恵の無念さに目が向いていたように思う。しかし,それは,文字としてしか残せない,それも異民族のローマ字でしか残せないこと自体の,悲しみなのではないか。その行為は,民族の生きた言葉が消えてしまうことを,それを喋る民族自体が絶滅していくことを意味しているのだから。

知里幸恵.jpg

(死去する2ヶ月前、大正11年7月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影された)


考えると,日本人も文字を持たなかった。だから,漢字の真名に対して,漢字から剽窃したかなを仮名と名づけた。台湾から,琉球弧,日本列島,千島列島と,カムチャツカ半島までの島の連なりに住んでいた民族は,和人も,琉球人も,アイヌ人も,文字を持たなかった。

アイヌの『ユーカラ』は,和人の『古事記』と同様,口承されてきたものだ。文字に起こそうとする金田一も,それを助ける幸恵も,時代の前後はあっても,同じく他民族である中国の漢字を借りなければ,何一つこの世に残せなかった,という大きな悲哀が,あるはずである。しかし,この芝居には,そこまでの視線はなかった。

金田一の善意に,おのれが起こそうとしている文字は借り物でしかないという自覚はない。だから,そのアイヌへの目は,大切な自意識を欠いている。同情があっても,共感はない。その意味で,現実の金田一京助がどうだったかとは別に,この芝居に出てくる金田一は,良質の日本人のもつ,ある種の無頓着さが,というか無邪気な鈍感さが,意図せずに描かれている。しかし,それは,残酷さでもある。

思えば,金田一のしていることは,本来文字を持たなかった日本人が,ただ僅かばかり先に漢字を剽窃して仮名を創り出しただけなのに,まだ文字をもたないアイヌを憐れみ,一方で国はその言葉を奪い,おのれの言葉に置き換えようとしているのに,それには手を拱いて,ほろびゆくアイヌ語を残そうと奔走している,という滑稽とも,間が抜けているともいえる事態でもあるのだ。。

そんなことを,感じさせ,考えさせてくれた芝居ではあった。

最後に素人ながら,すごく気になったのは,出てくる役者の方々の何人かの止まった手である。日常もそうだが,身振り手振りのうち,手振りはあまり意識されることはない。しかし両脇にただぶら下がっているということはないはずである。極端に言うと,手と腕が,芝居の流れから取り残されていた。それはひどく気になって仕方がなかった。


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E5%B9%B8%E6%81%B5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E4%BA%AC%E5%8A%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
http://matome.naver.jp/odai/2137413254248180401


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