偶然


ダンカン ワッツ『偶然の科学』を読む。

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原題は,

Everything is Obvious

であり,さらに,

Once You Know the Answer

とある。そう,

そんなの当たり前じゃないか,

と口走ることがある。それがまあ,常識,である。更にタイトルには,

How common Sense Fails Us

とある。だから,本書は,

第一部 常識
第二部 反常識

と分けて展開される。しかし,本書のテーマは,社会学,あるいは広く社会科学の有用性への著者なりの解答なのである。だから,「まえがき」に,

「社会科学の考え方を学ぶのは,物事の仕組みについておのれの直観そのものを疑い,場合によってはそれらを完全に捨ててしまうことを学ぶに等しい。だから,この本を読んでも,皆さんが世界についてもう知っていることを再確認する役にしか立たなかったのなら,お詫びする。社会学者として,わたしは自分のつとめをはたせなかったのだから。」

と,挑戦的なことが書かれる。そして,巻末に,こう書いているのである。

「望遠鏡の発明が天空の研究に革命をもたらしたように,携帯電話やウェブやインターネットを介したコミュニケーションなどの技術革命も,測定不能なものを測定可能にすることで,我々自身についての理解や交流の仕方に革命をもたらす力がある。
 マートンのことばは正しい。社会科学はいまだに自分たちのケプラーを見いだしていない。しかし,アレグザンダー・ホープが人間の適切な研究課題は天上ではなくわれわれのなかにあると説いてから三〇〇年後,われわれはようやく自分たちの望遠鏡を手に入れたのである。
 さあ,革命をはじめるとしよう……」

と。これは,マートンが,

「多くの社会学者は,物理学の業績が自分を評価するときの基準になるととらえている。兄と力比べをしたがっている。自分も一目置かれたいと思っている。そして兄ほどのたくましい体格も強力なパンチ力もないのが明らかになったとき,絶望する社会学者もいる。そしてこんなふうに問いはじめる。社会学の総合体系を作らずに社会の科学などというものがほんとうに可能なのか?」

「おそらく,社会学は自分たちのアインシュタインを迎える準備がまだできていないのだろう。いまだに自分たちのケプラーを見いだしていないのだから―ニュートン,ラプラス,ギブス,マックスウェル,ブランクは言うまでもなく。」

と嘆いたことへの,著者なりの解答なのである。

著者の名を高からしめた,ミルグラムの三百人によるボストンの一人を目指した,いわゆる,

六次の隔たり,

実験を追試し,二万人以上の鎖が,最終的に六万人,166か国を経由してターゲットに行きつき,

「鎖のおよそ半分が,七つ以下のステップでターゲットにたどりつけた」

ことを発見した。しかし,ミルグラムが,

「一握りの個人にメッセージが集中していた」

とする,

「伝達過程での『ハブ』はなんら見いだせなかった。メッセージをターゲットに届けた人の数は,鎖の数にほぼ等しかった。(中略)つまるところ,スモールワールド実験の被験者はたいていの場合,最も地位の高い友人や最も親しい友人にメッセージを伝えるわけではない。そのかわり,地理的に近いとか,似た職業に就いているといったターゲットと何かしら共通点がありそうな人々に伝えるか,単にメッセージの伝達をつづけてくれそうな相手に伝える。言い換えれば,ふつうの人でも特別な人々と同じように,社会集団や業種,国家,居住地などのあいだにある大きな溝に橋を架けることができるということだ。」

この実験は,「特別な人がいるはずだ」という常識,

スーパープレッダー,
あるいは,
インフルエンサー(影響者)

に起因させようとする常識についてのいくつかの実験につながっていく。そのひとつは,ヒット曲やヒット本には,

特別な人が介在している,

という常識を検証する,「音楽『市場』の再現を目的」に,ティーンエイジャー向けの初期のソーシャルネットワーキング・サイトであるボルト」での,

ミュージック・ラボ,

実験である。数週間でおよそ一万四〇〇〇人の会員が実験に参加し,

「実験サイトを訪れた会員は,無名のバンドの曲を聴いて,採点し,望むならダウンロードするように依頼される。一方の被験者には曲名しか示されないが,他方の被験者には以前の被験者がダウンロードした回数も示される。後者の『社会的影響あり』のカテゴリーの人々はさらに八つの並行『世界』に分けられ,その世界でのダウンロード回数しかたしかめられない。」

結果,

「明らかになったのは,他人がなにをダウンロードしたかについての情報があると,人々は累積的優位の理論が予測するとおり,たしかにそれからの影響を受けることだった。『社会的影響あり』のどの世界でも,自己判断のみの条件下に比べ,人気のある曲はいっそう人気があった(人気のない曲はいっそう人気がなかった)。
 だが同時に,…社会的影響を人間の意思決定に持ちこむと,不均衡性だけでなく予測不能性も増していた。…予測不能性は市場そのもののダイナミクスにもとから備わっていたのだ。
 注意すべきなのは,社会的影響が質の優劣まで完全に消し去ってしまったわけではないことだ。『すぐれた』曲(自己判断のみの条件下での人気度から判定できる)は『劣った』曲よりも平均して結果が良かったのも事実だった。(中略)別の言い方をすると,最もすぐれた曲でも一位になれないときがあり,最も劣った曲でも健闘するときがあった。そして並みの曲,つまり最もすぐれてもいないし最もおとってもいなかった大多数の曲は,ほぼどんな結果でもありえた。(中略)全体を見ると,質の点で上位の曲の五曲が結果の点でも上位の五曲になる可能性は五〇パーセントしかなかった。」

著者は,これを,

「個人が他人の行動から影響を受けるとき,似たような集団であってもやがて大きく異なる行動をとりうる」

とまとめ,そして,

「これは常識に基づく説明を根底から揺るがす」

と言う。つまり,こういう常識に,である。

「常識に基づく説明は,集団を代表的個人に単純に置き換えることにより,個人の選択がどう積み重なって集団の行動になるのかという問題をまるきり無視してしまう。そしてわれわれは,個々の人びとの行動理由はわかっていると思いこんでいる。そのため何かが起こったとたん,それは架空の個人,つまり『人々』なり『市場』なりがのぞんだことなのだと主張することができる。」

また,インフルエンサ―の実験では,

「二カ月の期間をとり,のべ160万人以上のユーザーからはじまった7400万本以上の拡散の鎖」

を辿って,ツイッターによる情報の拡散を実験してもいる。結果は,

「7400万本の鎖のうち,リツィート数が1000回に達したのはわずか数十本だったし,一万回に達したのは,一,二本にすぎない。」

という。これは,

「数百万の人々の複雑なネットワークがどうつながっているのか―そしてこれはもっと厄介なのだが,影響がそこでどう広まるのか―を想像しようとしたとたん,われわれの直観は打ち負かされる。少数者の法則のような『特別な人々』説は,事実上あらゆる働きをわずかな個人の手に集中させることで,ネットワークの構造は結果にどう影響するのかという問題を,特別な人々を動かすものは何かというずっと単純な問題にすり替えてしまう。
 常識に基づく説明の例に漏れず,これも理にかなっているように聞こえるし,正しいのかもしれない。だが,『Xが起こったのは少数の特別な人々がそれを起こしたからだ』と主張するのは,循環論法を別の循環論法で置き換えるのに等しい。」

と。

ミュージック・ラボ実験,スモールワールド実験等々を通して,今日,

測定不能なものを測定,

するツールが手に入ったことを,著者は証明している。しかし,

「電子データがいくらあろうと,そこから社会学的に意味のある推測を引き出すわれわれの能力は制限されている。」

が,

「われわれはこれらすべてのアプローチを同時に進め,人々の行動と世界の仕組みを上からも下からも理解することに集中し,利用できるすべての手段と資源をつぎ込む必要がある。」

そういう時代になったのだ,著者は言いたいらしいのである。僕には,著者自身も認めていたが,

「社会学者は人間の行動の大理論や普遍法則を探求するのではなく,『中範囲の理論』を発展させることに集中すべきだとマートンは説いた。中範囲の理論とは,孤立した現象以上のものを説明できるほどに適用範囲が広いが,具体的で有用なことが言えるほどに限定的な理論を意味する」

でいう「中範囲の理論」を実現しつつあるのだ,とは感じる。

読み終えてみると,『偶然の科学』という訳書のタイトルへの違和感は,

当たり前とする常識を検証し,偶然でしかないことを実証しようとする,

という意味で少しは薄らいだか,少なくとも,

当たり前に見える「偶然」を検証しようとする,

著者のマインドを正確に反映しているとは思えない気がした。

参考文献;
ダンカン ワッツ『偶然の科学』(早川書房)


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