ナショナリズム


大澤真幸『近代日本のナショナリズム』を読む。

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本書の冒頭,

「ナショナリズムの謎」

の章は,レーニンのショックから書きはじめられる。

「ナショナリズムの謎は,第一次世界大戦勃発の直後にレーニンが受けた衝撃の中に集約されている。世界大戦が始って間もない頃,第二インターナショナルに参加していた,ヨーロッパ各国の社会主義政党は,ほぼ一斉に,自国の戦争の支持にまわった。」

レーニンに与えた「驚倒」は,

「ナショナリズムは,特定のネーション(国民・民族)に愛着し,これを優先する特殊主義の一形態であるように思える。他方,社会主義やマルクス主義は普遍主義的な思想である。普遍主義者の特殊主義への突然の折れ曲がり,ここに,この出来事の驚きの中心がある。」

というものである。なぜなら,

「ナショナリズムは,特殊主義の一形態であると見なされ,これを批判したり,乗り越えようとする者は,コスモポリタニズムのような何らかの普遍主義的な思想に立脚しようとする。」

それが,大戦勃発で,ナショナリズム克服になりえないことを明らかにしたからだ。それは,

「ナショナリズムは,特殊主義と普遍主義の交叉,特殊に限定された共同性への志向と普遍的な社会への志向との接続をこそ,その本質としている」

からだ,と著者は書く。例えば,「背反するポテンシャルを有している」民族自決と民主主義とを例に,著者は,

「民主主義を特徴づけているのは,諸個人の属性についての『にもかかわらず』という非限定・脱限定の表現である。納税額にかかわらず,身分にかかわらず,人種にかかわらず,性別にかかわらず…といった否定によって,個人の具体的な属性を還元し,抽象化することで,政治への参加の可能性を普遍化すること,これが民主主義あるいは民主化ということだ。とすれば,民主主義は,特定の民族を他から区別し,それに自決の権利を与えようとする思想とは,少なくとも,その基本的な精神において背反するはずだ。両者が国際政治において同等に重視され,ときに同時に要請されても,誰もとまどったり,たじろいだりしないのは,この一見明白な矛盾を不可視化する,何らかの社会的なメカニズムが働いているからである。それこそが,ナショナリズムである。」

と,ナショナリズムの,

「普遍性への志向と特殊性への志向,真っ向から対立するこれら二つのベクトルが,いかにして,どのようなメカニズムに媒介されて接続することができるのか。普遍性への志向が,どうして,特殊性への志向へと反転するのか」

という問題意識を,本書の通底するテーマとして,戦前の,

ナショナリズムからウルトラナショナリズムへの変化,

更に現代の,

靖国問題,
おたく問題,

を例示として,展開している。発表場所が違う論文を集めているために,正直,文体が異なって文の難易に差があるという難はあるし,かつ,問題提起だけで終わっていて,

で,どうするの?

と問いたくなる箇所もある。しかし,今日わが国の脱知性というか反知性というか,ずたぼろな知的状況の中では,ある意味,こうした思想のフレームを明確にしておくことは,大事だと思う。第一章の,

「ナショナリズムの謎」

が,やはり読みごたえがある。ベネディクト・アンダーソンの,

ナショナリズムの三つのパラドクス,

を手掛かりに始められる。三つとは,

「第一に,ナショナリティ(国民的帰属)という社会文化的概念は,形式的には普遍的なのに,それが具体的にはいつも,手のほどこしようがないほど固有性を持って現れ,そのため,定義上,たとえば『ギリシャ』というナショナリティは,完全にそれ独自の存在になってしまう。」

「第二に,歴史家の客観的な目には国民(ネーション)は近代的現象に見えるのに,ナショナリストの主観的な目にはそれはきわめて古い存在と見える。」

「三つ目のパラドクスとは,…ナショナリズムは,近代のどのような『イズム(主義)』よりも大きな政治的影響力をもったのに,哲学的には貧困で,リベラリズムやマルキシズム,フェミニズム等の他の『イズム』と違って偉大な思想家を生み出さなかった。」

である。しかし,明らかに,

ネーションは近代の産物,

にもかかわらず,

「どうしてナショナリストの目にはネーションがそれより遥かに古いものに見えるのか。」

著者は,アントニー・スミスの,

「固有の意味でのネーションは近代に成立したのだが,ネーションの素材とも言うべきエスニックな共同体―これを『エトニー』と呼ぶ―は,はるかな古代から存在していたのだ」

という説は,逆立ちしている,という。三角形を例に,

「個々の具体的な三角形は,決して概念としての『三角形』ではないが,それなしに『三角形』という概念を理解することはできない。同様に,市民の抽象的な共同体は,エトニーの具体的で有機的な繋がりとは異なるが,それなしには構成されえないのである。」

として,

「エトニーがネーションの起源なのではなく,ネーションこそがエトニーの(論理的な)起源だ」

と。それは,ネーションが,アンダーソンの言う,

「想像された共同体」

つまり,「想像においてのみ実在的」であるからにほかならない。しかし,今日吹き荒れているナショナリズムは質的に異なり,

「国民を民族化する運動として生起している。かつて,ナショナリズムは主として,局地的な共同体…を『国民』という広範で包括的な単位へとまとめ上げていく圧力として作用していた。だが,今日のナショナリズムは,この人民の国民化とちょうど反対方向への圧力を加えてくる。それは,国民を,『民族(エスニシティ)』というより小さな単位へと分解していく圧力として作用しているのだ。」

と。いま,国内で起こっているヘイトスピーチは,まさにそういう反応に見える。しかし,なぜ,

「古典的なナショナリズムは,特殊主義と普遍主義の背反するベクトルの均衡点において…ネーションを結節させることで成り立ってきた。それに対して,特殊主義と普遍主義が,ともに,この均衡点の位置を超えて強化されたときに現れるのが,現代のナショナリズム」

なのか,の答は,出されていない。あるいは,本質的にナショナリズムは,変っておらず,この分析が間違っているのかもしれない。そもそも,特殊主義が,

普遍主義を凌駕しようとすること自体,

が,ナショナリスティックな表れではないのか,という気がしないでもない。

普遍主義と特殊主義の相克は,そのまま,靖国問題の象徴的対立と重なってくる。それを,著者は,こう整理する。

一つの立ち位置は,「死者のまなざし」である。つまり,

「戦後の『日本人』が自らの現在を肯定し,規範的に承認するためには,今日の『日本』をもたらすのに貢献した―あるいは少なくともその『原因』となった―死者のまなざしを必要とする。死者たちが欲望し,願望していたことの現実化(の過程)として,自らの現在を意味づけることにおいて,『日本人』としてのアイデンティティを全的に確立することがかなうのである。そのためには,まずは,『死者』そのものが肯定的に措定されなくてはならない。しかもその『死者』は,特定の希望や願望をもって,能動的に社会に変化をもたらそうとした者でなくてはならない。つまり,(中略)靖国参拝は―非業の死を遂げた軍人・軍属を靖国神社で追悼し,ときには検証することは―,われわれの『(日本人としての)現在』を承認する,超越的な他者を措定する操作そのものなのである。」

一方は,普遍的な立ち位置である。

「歴史は,そしてまたわれわれの『現在』は,死者たちが保持してきた共同体の『善』によってではなく,歴史の終局に仮想的に置かれた救済者の判断によって,つまり『普遍的な正義』によって裁かれることになるだろう。裁き手とその判断基準が異なるのだから,当然,その『判決』も,したがって歴史の『勝者』も異なってくる。第二次大戦でアジアに侵出した日本の軍人は,右派から見れば,無罪でなくても,情状酌量の余地が出てくるが,左派から見れば,決定的に有罪である。いずれにせよ,現在の日本社会は,自らに承認を与える,超越的な第三者の審級を,『戦後六〇年』の時間幅の内部に見出すことに,困難を感じているように思える。それを過去の方に,つまり『六〇年』の以前に求めれば,右派に,逆に,未来の方に,『六〇年』の以降に求めれば,左派になる。」

普遍主義と特殊主義の綱引きを乗り越える第三の道は,

「神(第三の審級)が可謬的であることを認めるところ」

と,著者は言う。しかし,それは,今日のずたぼろの知的状況では,

東京裁判の否定,

更には,

ポツダム体制の否定,

に,シフトさせることになるだけのような気がするが,いかがであろうか。

参考文献;
大澤真幸『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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