2016年08月06日

秀次


藤田恒春『豊臣秀次』を読む。

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秀次には,二点の肖像画が残されている。一点は,一般によく知られている瑞泉寺所蔵のものだ。

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豊臣秀次像/瑞泉寺蔵(部分)


著者は,こう書く。

「冠に直衣(のうし)姿で,切れ長の目に鼻の下と顎に少し髯をたくわえた少し傲岸不遜な雰囲気をたたえたものである。揉上(もみあげ)が特徴的,やや釣り上った両眼,固く結んだ唇がきつい印象を与えている。
 作者がどのような意図で描いたものかわからないが,後世喧伝された『摂政関白』像に沿うような意図で画かれたものではないかと推察される。近世以降の秀次像形成に大きな役割を果たしたと思われる。」

もう一点は,京都地蔵院に伝来したもので,賛がある。

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豊臣秀次像、高厳一華賛(京都地蔵院所蔵)


「赤い唇が印象的である。冠をつけ束帯に太刀を佩び,右手に笏を持ち,やや面長な容貌は,穏やかな青年武将の風貌をたたえているように見える。」

と著者は書く。賛には,

文禄四年七月十五日

同示不悟
東假図畫

海和尚之
前関白高巖一峯御影

とある。「十五日」とすると,

「切腹した日であたり,死の直前に画かれたものとなろう。いずれにせよ,死の直前か直後に描かれたものであり,秀次肖像画として信憑性は高い」

として,著者は,両者の印象が,ずいぶん違うが,

「真贋は問わないが,賛のある地蔵院の肖像画が,秀次の姿に近いものではなかったかと考えている。」

と書く。秀次は,

「子供のときから叔父秀吉の政略のため最初は宮部継潤へ,二度目は三好康長のもとへ養子に出され,天正十三年(1585)の四国攻めの前には,三好氏から離れ,羽柴孫七郎として秀吉の麾下に属するようになり,このときの論功行賞として一躍近江で四十万石を宛行(あてが)われ,八幡山城主となった。(中略)天正十八年七月,尾張国清州へ転封となって以降も,尾張の支配は父親の三好吉房へ任せ,自らは聚楽第にいることが多かった。
 このような状況に変更を余儀なくさせたのは,秀吉の弟秀長の病気と死去という現実であった。秀長にかわり北条を攻め,ついで奥州仕置に従軍せざるをえなくなった。しかのみならず,天正十七年五月二十七日に生まれた,秀吉の鶴首の実子,鶴松が二年後の八月五日に亡くなり,…三度目の養家先として秀吉に迎えられたのである。」

その一生は,

「叔父の意のままに操られていた観すらあり,一青年の人生を考えるとき,自らの意志を表現できなかったものかと怪訝に思われるところもある」

にしろ,

叔父秀吉に振り回された28年の一生,

ということになる。その秀次が,関白という位に就くことによって,

「公家や桑門の人びとを宰領するようになるに及んで政権側に危機感を募らせるようになったのではないか」

と,著者は推測する。少なくとも,「関白」職を通さなければならないという制度上の権威と権力はついてくる。秀次事件について,

「秀次が謀叛といっても,秀吉を圧倒する軍勢を持たないことに鑑みれば,また,秀次附属の池田・山内などの軍勢も動いていないことをも勘案するとき,『謀叛』との言葉は軍勢を動かすようなものではなく,単純に秀吉の意向あるいは命令に,真っ向から背く回答をすることによって引き起こされた混乱と考えるべきであろう。すなわち,両者の不和の内実は,直接的であれ間接的であれ,自明の問題である。豊臣家家督を巡る問題である。」

と語り,秀次追放に当たり,明智光秀・柴田勝家・佐々成政・北条氏政にしたように,明確に罪状を書いていないことから,

「甥子とはいえ,関白職を剥奪し高野山へ追放するにしては,その理由を不届とだけ記すのは,いかにも奥歯にものの挟まった物言いである。秀次に非があるとすれば,もっと断定的に断罪できたのではないだろうか。」

と秀吉サイドの謀略を暗示する。江戸時代,秀次像ができあがった時代に,松浦静山は,『甲子夜話』で,

「新関(秀次のこと)は桀紂の如き独夫とも聞こへず,全く石田が讒侫と太閤の不明とに出るなるべし」

と書くように,政権側の危機感の反映である。高野山へ追放した折,秀吉は,身の回りのものだけの供を認める条書を出し,その文面だけを見れば,高野山軟禁を意図していたように見え,切腹を命じていない。しかし,それをもたらした,福島正則ら三名は,結果として検死役となった。この経緯を,

「秀次の切腹については,秀吉の命によるものとする考え方に対し,秀次自身が雪冤のため腹を切ったとする見方がある。秀吉が当初より秀次へ死を与えるなら,右の条書など必要ないものである。秀次謀叛を呼ばわっているうちに話が嵩じ,条書の旨趣を伝える前に一気に死を賜う方向へと行ってしまった。いわばもののはずみ的現象である。」

と書く。秀次二十八歳である。

「秀次は,山本主殿・山田三十郎・不破万作の介錯をしたうえで,自らは雀部重政をたのみ生害した。」

という。しかし,だとすると,この後の妻子を何十人も,三条河原で殺戮したのは何であったのか。秀吉の死の三年前である。

「秀次を葬り去ることにより,一番の痛手を蒙ったのはほかでもない秀吉自身であったと商量するものである。」

という著者の言葉が印象深い。それは,

「小牧長久手での失態に対する譴責,北条攻めに際して与えた覚書,関白職就任に対して与えた戒めなどを勘案するとき,十六世紀末期の政治社会の大きな変革のうねりが,まだ収まりきらない状況のなかで,政権を託せるような『器用』さを持ち合わせた人物であったようには思われない。にもかかわらず,秀吉のまわりには人材がいなかった。天下人秀吉をもってしてもこのことばかりは如何ともしがたかった。甥っ子秀次を一軍の将として,豊臣氏の後事を託せる人物として訓育しきれなかったところに秀吉の限界があったのかもしれない。」

と,秀吉につけが返ってくる。著者は,

「たとえ秀次が優れた人物であっても秀吉自身の血肉をわけた実子に豊臣家を継がせたかった」

と著者は書くが,仮に,養嗣子として迎え入れた,

織田信長の四男,秀勝(於次丸),

が存命であったとしても,やはり,秀吉は実子のお拾(秀頼)に継がせようとしたのであろうか。

参考文献;
藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:秀次
posted by Toshi at 05:24| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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