和語
熊倉千之『日本語の深層:〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』を読む。
同じ著者の,
『日本人の表現力と個性─新しい「私」の発見』(中公新書)
を,ずいぶん昔に読ませてもらった記憶がある。それについては,
http://www.d7.dion.ne.jp/~linkpin/critique102.htm
で使わせていただいた。
本書で,著者は,
「『イマ』起こっていることを,ぼくたちの五感によって取り込んで,それをそのまま音声に換え,直接的・具体的なことばとして誰にも直感的にわかる表現にしています。たとえば『S』音は,スレル音(摩擦音)ですから,ただ『すー』ッと伸ばして発音しただけで,狭いところを何かが通る現象が表現できます。『すらすら・するする・すれすれ・すかすか・すくすく・すいすい・すべすべ』などなど,聞いただけですぐ具体的な何かがイメージできるのは,日本語がぼくたちの感性をとおして現実を捉まえる機能を持っているからです。」
という日本語の特性を,その音韻の発生にさかのぼりながら,丁寧に辿っていく。その説は,今日の国語学の主流とは異なり,多数に受け入れがたいものがあるに違いないが,僕には,首肯出来る部分が多々ある。傍らに,ぼくの依拠する,
日本語は文脈依存である,
という考え方と,時枝誠記の,
風呂敷型統一形式,
を念頭に置きながら,読ませてもらった。文脈依存については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.html
で,風呂敷型統一形式については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
で触れた。いずれも,客観化,というかメタ・ポジションからの発話ができない日本語の特徴を示している。本書も,
「『イマ・ココ』の『現実』がよく見えるのですが,『イマ・ココ』から離れた時間・空間の扱い方には問題が生じます。(中略)日本語には,抽象的・間接的な事象・現象をうまく処理できないところがあるのです。それは『やまとことば』と言われる古い日本語が,文字をもたない言語だったことが一つの理由です。」
と,その特徴を書く。それは,
擬音語・擬態語,
と言われる表現の多種多様さに,よく現れている。たとえば,
イライラ,
について,
「『/iraira/』とは,/i/と表現すべき『存在』が,まだ『未然/ra/』形であることを繰り返す(強調する)表現でした…。実現すべき事象がなかなか起こらない状況が,この『いらいら』という感情を起こす基です。擬態語の音声としてムダなものが全くない見事なことばです。」
と,通常の「イライラ」の語源(イラ(刺)イラ(刺))とは別に,言葉の成り立ちから迫っていく。この,
イライラの「イ」,
は,「イマ」の「イ」に通じると,著者は説く。
「『イ』は口を横に引いて発音し,舌の位置がほかの四つの母音よりも相対的に前にくるので,一番鋭く響きますし,時間的にも口の緊張が長く続かない,自然に短い音なので,『イマ』という『瞬間』を表現できるのです。」
と言い,
「やまとことばの『音声』と『意味』には,ソシュールの説に反して,『恣意的』ではなく,密接なつながりが感じられるのです。」
として,「イマ」の「マ」について,こう触れていく。
「『イマ』の『マ』は,実は/i/という一瞬の時間的な間隔なのです。『マをとる』とか『マをおく』とか,何もないように見える時間・空間が,演劇でも絵画でも日本文化では大切な意味をもっています。/a/は一般的に『開かれた』時間や空間の表現に使われます。『開かれている』時間・空間『マ』は,何もないように見えますが,そこに何かが生まれる可能性を孕んでいます。/m/音が何かを『生む/umu/』特性をもつからです。…/m/音は,唇を閉じて発音するので,内にこもった語感があり,何かが『内包』された事態に使われます。」
日本語は,ウラル・アルタイ語系といわれ,
膠着語,
とされる。その例に,「もつ(縺)る」を例に,こう述べる。
「日葡辞典…の説明に,『ユクミチニカヅラガシゲツテアシニモツルル』とあります。『モツルル』は『裳(も)+蔓(つる)+ル』,つまり『着物のすそが蔓にからまっている』ことですが,『裳』と『蔓』の二つのイメージが,その順序でつながっているところに,『膠着語』としてのやまとことばの『特質』がはっきり見えています。」
この膠着語の特性のひとつは,
「抽象的なことばを文の初めに使えないことです。『雨が降る』を英語の〈It rains.〉のように,抽象的な〈it〉から始めることがありません。」
であり,いまひとつは,
「/r/という流音(はじき音)がけっして語頭には来ないことで,(中略)この/r/音は,…日本語で『最重要な動詞』だとした,『ある』という動詞の根幹を担う音で,実際やまとことばでは,/r/音は,『存在』を意味する以外に使われることはありません。」
和語のことばの特性を,たとえば,
「『来(く)』(現代語の『来る』)は,話し手のいる場所へ何かが向かって『来る』ことです。『行く・往く』とし対照的な動作です。…『来』の未然形は/kö/で,現代語でも『コない』ですが,(中略)何かが出来するまでの現象として認識できないので,『未然(まだ起こっていない)』形には,特殊な音声が必然的に求められます。『変格活用』と言われる特殊な動詞の変化です。このあたりの音声の論理性は,目を見張るばかりですが,日本語の音声と認識の緊密な関係は,ぼくたちの感性を支えて,日本文化の生成に深くかかわっています。」
と書く。ここからも知れるように,
「体験を経て自分の語彙となるやまとことばは,否応なしに『主観』性をおびます。(中略)つまり日本語では,すべてのことばの意味は,厳密には,話し手・書き手でなければ判らない『主観』性を,他人とのコミュニケーションの問題点として抱えることになります。」
したがって形容詞は,西欧語のように,
モノの属性を表現することば,
ではなく,
話者の感性がモノに反応して発することば,
でしかない。
イマ・ココの言語,
と言っているのは,その意味で,話者のいる,
イマ・ココ
へ必ず戻ってくる,ということを意味する。たとえば,僕の理解では,
This is a pen.
を日本語に訳すと,
これはペンです,
となるが,それは,そう日本語表記した瞬間,これは客観描写ではなく,そう語っている話者が,そう言っているという含意を必ず持ってしまう,ということだ。著者が,
翻訳不能,
と言っているのは,このことを指す。その日本語の特色を具体化した,
能のワキ,
と
浄瑠璃の太夫,
のもつ意味,更に三人称小説と悪戦苦闘した,
夏目漱石の『こころ』,
と
中島敦の『古譚』(「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」),
を例にとり,どう取り組んだかを分析してみせる。ちょっと視界が開くこと請け合いである。
参考文献;
熊倉千之『日本語の深層: 〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』(筑摩選書)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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