2016年09月01日
ナラティヴ・アプローチ
第80回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会,
「平木典子先生の『社会構成主義とナラティヴ・セラピー』」
に参加してきた。案内メールにあった,平木先生のメッセージは,
「私たちは、あるものの見方や行動の仕方、風習などを持つ人々の中に生まれ育ち、社会の一員になっていきます。逆に、家族、地域社会、所属機関など、いわゆる社会のしきたりや規則に合った言動をしないと、その集団の一員にはなれず、不適応者、ときにはルール違反をしている人といったレッテルを貼られ、疎外されていきます。ところが、人には個性と選択力があり、社会に合わせたものの見方や言動をしていると、自分らしく生きることができなくなります。
社会が創りあげてきた規範と自分の特性との葛藤が起こったとき、人と社会はどのように反応し合うのでしょうか。そんなことを考えて、人々の問題や症状に取り組んでいるのがナラティヴ・セラピーのアプローチです。
今回は、ナラティヴ・アプローチの考え方と技法を手掛かりにして、私たちの臨床や生き方を考えてみたいと思います。」
<プログラム>は,
1.「現実」とは何だろう,
2.21世紀を生きるために、どんなものの見方・心理療法が必要か,
3.ナラティヴ・アプローチの精神と実践,
の順で進められたが,最後の「ナラティブの精神」は,次のようなワークで体験させてもらった。それは,四人組で,自分の「困ったこと」を,
困っていること,
その原因として思い当たること,習慣,生育歴等々,
どのように対処してきたか,
(ここまでが,過去に焦点を当てる,従来のセラピーとするなら)さらに,
それからどんなことを学び,生かされますか,
それはどんな場,時代だったら評価されますか,
どのように生きたいですか,
それを見守り,応援してくれる人は,
を,述べあう。前半が,いわゆる,困ったことにまつわる自分の,
ドミナント・ストーリー,
であり,そこに見え隠れしているのは,ドミナントな筋書きで,失敗,できなかった,駄目と墨づけされた,
オルタナティヴ・ストーリー,
である。後半は,「困ったこと」自体を,自分の味づけから解き放し(外在化である),
新たな可能性を生み出すストーリーの再著述,
になっていく。「困ったこと」が話題のはずなのに,未来に志向が向いただけで,困ったことは,ただ乗り越えるべき(どう乗り越えるかを考える)ハードルに見えてくる。
この会話そのものが,社会構成主義的,あるいはナラティヴ・セラピーの作り出す空気感というか,雰囲気なのである。
さらに,続けて,
自分が今一番力を入れていること,エネルギーをそそいでいることは,
どんなことが自分をそこに導いたのですか,
それは社会文化的な影響をどんなふうに,どれだけ受けていそうですか,
あなたのもっている「強み」,自分の指針で一番頼れる部分はどんなことですか,
と,自分のリソースを見つけ出す作業をした。
この会話にあるのは,
相手に敬意を払い,非難することのないアプローチ,
人が問題なのではなく,問題が問題,
とするマインドであり,アクノリッジ(「受け留める」と平木先生は訳される)の機会と場づくりである。
社会構成主義については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390438872.html
で,触れたが,社会構成主義は,
「事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する」
という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。
第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。
例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。
第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。
ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,
ということになる。そのことで思い出すのは,平野啓一郎の,
分人,
という概念である。分人については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/425774541.html
で触れた。
「全ての間違いの元は,唯一無二の『本当の自分』という神話である。
そこでこう考えてみよう。たったひとつの『本当の自分など存在しない。裏返して言うならば,対人関係ごとに見せる複数の顔が,すべて『本当の自分』である。』
で,「個人(individual)」ではなく,inを取った「分人(dividual)」という言葉を,平野は導入する。
「分人とは,対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人,両親との分人,職場での分人,趣味仲間との分人,…それらは,必ずしも同じではない。
分人は,相手との反復的なコミュニケーションを通じて,自分の中に形成されてゆく,パターンとしての人格である。」
つまり,
「一人の人間は『わけられないindividual』な存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。」
というわけである。で,
「個人を整数の1とするなら,分人は,分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は,対人関係毎のいくつかの分人によって構成されている。そして,その人らしさ(個性)というものは,その複数の分人の構成比率によって決定される。」
これは,人は,
関係性の中でしか生きられない,
というナラティヴ・アプローチあるいは社会構成主義の考え方と通底している。そして,であるなら,
どの人との関係性を意味づけて,つなげるか,
で,その人のストーリーは変わっていく。再著述のストーリーは,過去の自分自身の再意味づけでもある。
サビカスは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/436220288.html
で触れたように,従来のように,
「人の内に備わっている中核となる自己を実現する」
という考え方ではなく,
「自己の構成は一生を通じたプロジェクト」
であり,そういう新たな時代のカウンセリングは,
「人生の職業を見つけるという課題から人生の職業を創造する方法にカウンセリングの方向を転換させるためには,人生設計に取り組み,人生において仕事をどのように用いるかを決定する学問を必要とする。」
と述べていた。そのチャレンジが,サビカスの,
『キャリア・カウンセリング理論』
ということになる。
参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)
マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』(福村出版)
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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