Infinity


ハグハグ共和国という劇団の「infinity」という芝居

http://hughug.com/infinity/index.html

を,知り合いが出ていると言うので拝見した。

インフィニティ1.jpg


Infinity,

つまり「無限」である。無限とは,

限界がないこと,無際限,

であるが,時間軸でいうなら,それは,

果てがない,

ことではあるが,

永遠,

とは違う。われわれの時間感覚を超えている,という意味でいいのかもしれない。

「直感的には『限界を持たない』というだけの単純に理解できそうな概念である一方で、直感的には有限な世界しか知りえないと思われる人間にとって、無限というものが一体どういうことであるのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでいる。」

と,ウィキペディアは書く。「(限りが)ない」ことを示すというのは,その意味で確かに視覚化は難しいのかもしれない。

劇中,台詞や朗読に「説明」はあったが,必ずしも,

視覚化,

されてはいなかった気がする。

劇は,ホスピス病棟のイベントのサポートいうことで,かつては売れたモデルと,元モデルのマネジャーとカメラマンが,そのイベントの企画,実施をサポートするなかで,逆に,生きていく勇気をもらう,といったストーリーなのだが,イベント(その病棟の患者ひとりひとりの「なりたい自分」を,白雪姫をベースにファッションショー形式で登場させていく)の,いわば祭りの後,生きている者たちが,一瞬動きを止め,死んだ者が動き出し,去っていく,というシーンがあり,この一瞬に,作者の考える,

無限の視覚化,

があったと受け止めた。それは,

シーケンシャルな生者のこの世の時間,
と,
(永遠のいまであり続ける)死者の世界の時間,
と,

が,対比的に示されていた。生者の止まっているという視覚化で,死者の時間が,

永遠のいま,

でありつづけているというメタファになってもいた。

しかも,この両者は,隣り合わせて,パラレルになっていることを,視覚化して見せた。生者の時間とは別の時間を,死者が生きている時間が,すぐ隣にパラレルにある,ということを具体的に表現していたと思う。逆に言うと,死者は,生者のシーケンシャルな時間を眺める位置にいた,ということもできる。ふと,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441553477.html

で触れた,「シュレディンガーの猫のパラドックス」について,

「〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉が〈共存している宇宙〉を考え,その宇宙が観察を繰り返すごとに〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉に〈分岐〉し,〈生きている猫〉と〈死んでいる猫〉とがそれぞれ〈別の宇宙〉に〈重ね合わせ〉の状態で並存している」(『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』)

という,「並行世界説」を思い出していた。

そういう死者の世界と,生者の世界が併存している,という視点から見た時,ラストで,

止まった生者の時間と動く死者の時間,

が視覚化されたとき,そこに,イベントに参加していた何人かも,既に死者となっていること,ずっと舞台上に静か存在していた女性が,ドクターの亡くなった細君であることも,はっきりと意識させられる(僕は,この後の暗転の次の後日譚は,前半でパラレルな時間が視覚化できていたら,要らなかったと思う)。

正直に言うが,その白い衣装を着ている女性が,死者なのか生者なのかは,はっきりわからなかった。うろうろしているホスピス患者なのかと思っていた。しかし死者の時間に加わっていることで,死者の時間を生きていると,初めて視覚化される。

緩和ケアについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392554905.html

で触れた。僕の知っている,リアル世界の緩和ケア病棟は,笑顔がないとは言わないが,あんなにドタバタしないし,死者と同居するほどの静寂が占拠していた。一般病棟とつながっていたということもあるが,治療の不可能,というより,医療費を掛けるだけ無駄という感じで,患者は移されていくので,ただ死を待つだけの静けさが支配していた。だからといって,ホスピス病棟の患者がこんなイベントをするのはおかしい,などとは僕は思っていない。

ただ,緩和ケアは,死者と生者とが,パラレルワールドにいるのだ,と思う。死にゆく人も,そこにいる。死の直前,人は身体から離脱して魂だけが,その部屋を俯瞰する位置にいて,死にかけている自分を眺め,その周りにいる家族や知人を眺めるのだと,聞いたことがある。真偽は知らない。その時,死につつある人は,パラレルワールドを見わたせる位置にいる。

その意味で,シーケンシャルに流れる生者の時間軸と重なりつつ,違う時間が流れる死者の世界が,パラレルのあることを,ドクターの亡くなった細君で表現するのであれば,そのパラレルを,劇のはじめから強調してもらう方が,わかりやすかったかもしれない。

正直のところ,亡くなった女性が,どっちが院長の娘さんでどっちが細君なのか,白い服を着た瞬間,区別がつかなくなっていった。舞台を見ている限り,見分けがつかない。区別がつかなくてもいいが,パラレル感を視覚化してもらえれば,生者を見守っているのは,生きている家族や医療者だけではなく,死者もまた見守っているのだということが,明確に視覚化された気がする。

その意味で,すべての患者を,次々とシーケンシャルに登場させていくイベントのシーンは,

母と病いの娘,
夫と病いの妻,
元のアクションスターと後輩,
同量の女性と病いで熊の着ぐるみを辞めた男,

等々,劇の時間のほとんどを占めていて,僕には冗長で,時に退屈に感じる箇所もあった。どうせなら,いくつかのエピソードを二つとか三つ並べて,同時進行にしてもよかったのではないか。イベントのシーケンシャルな時間をそのまま劇の時間にするのではなく,並べた三つを,次々,スポットライトを当てて,焦点化することで時間を移動させることで,イベントの時間進行をパラレル化して劇の時間が流れる,というほうが,イベントの進行に合わせて劇の時間が流れるよりは,「無限」というタイトルにふさわしかったのではないか。

最後に,苦言をひとつ。
開演直前に,空いた席に,スタッフを座らせた。たまたまその一人が僕の隣に座った。劇団員なのかどうかは分からない。最初は,劇に登場するのかと思ったがそうではなかった。劇が始まってしばらくして,携帯電話の小さな呼び出し音が鳴り,女性は,それを止めるでもなく,モニターを見ながら何か操作をしていた。そのスマホの画面が,暗くなった劇場の中では目につく。それが必要な連絡なら,そういう人を客席に座らせるべきではない。開始直前,観客には,何度も,携帯電話を,マナーモードではなく,電源から切ってくれと要請していた以上,なおさら許されないのではないか。

インフィニティ2.jpg


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90
岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』(PHP)


ホームページ;
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今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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