2016年09月15日
自己完結
「自己完結」とは,基本的に,閉鎖的であると思う。『実用日本語表現辞典』,
http://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%8C%E7%B5%90
によると,
「何かの物事について、自分自身の中だけで納得したり決着したりしているさま。『周りの人からするとまだ決着していないのに、独りよがりに決着している』といった意味合いで否定的に用いられることもある。また、『自分自身で調べたりして自分だけで疑問や課題などを解決できた』という意味で用いられることもあるが、この場合は、『完結』というよりも『解決』が近い。」
とある。あるいは,別に,
「それだけで一つの世界を作っていて、内部に矛盾のないこと。」
と載せるものもある。仕事の仕方でいえば,
抱え込む,
というのに近い。自分の裁量でできる範囲で,自分だけの才覚で,何とかしようとしてしまう,という意味でもある。そして,それは,本来自分で抱え込んではいけないこと,あるいは自分ではどうにもならないことも抱え込んで,何とかしようとしてしまう,という意味でもある。
あるいは,
http://psychology-japan.com/self-completion-type-human.html
で,自己完結型人間について,
「一般に自己完結型人間と言う意味を調べると、何か問題が起こっても、自分はあまり関わらなかったり、自分の中だけで結論を出して、納得しているタイプということになります。冷静でドライな意見の持ち主ともいえるでしょう。」
とある。ある意味で,抱え込みといい,別の意味では,碁や将棋で言うと,勝手読みで,相手を無視して自分の筋しか見ないへぼでもある。
なぜこんなことにこだわるかというと,先日ある芝居を観て,実にオーソドックスで,完結した世界を,きちんと描いているのだが,途中で,うんざりしてしまったことがある。
別に脚本は,丁寧に,人物ひとりひとりもきちんと造形され,細部まで目が行き届いている。申し分がないのである。しかし,既視感が拭えない。どこかで見たことのある,パターン化した人物たちなのである。ひとりひとりがきちんと描かれれば,描かれるほど,デジャブが強まる。
どこかで見たことのある放蕩息子であり,
どこかで見たことのある頑固なオヤジであり,
どこかで見たことのある嫁舅であり,
どこかで見たことのある強突く隣人であり,
どこかで見たことのあるコソ泥であり,
どこかで見たことのある駆落ちであり,
どこかで見たことのある愛人と妻であり,
等々どこかで見たことのある人たちなのである。
既視感とよく描かれていることとは矛盾しない。しかし,それは破綻がないということではない。いやむしろ,既視感を懐かせるということは,その芝居世界が完成度が高ければ高いほど,自己完結した芝居世界の綻びなのではないか。
芝居とは,何も世界のミニチュアをつくることではない。それなら,
箱庭,
に過ぎない。あるいは,
ドーム,
と呼んでもいいし,
ドールハウス,
と呼んでもいい。それが,どんなに現実を忠実に写したとしても,そのことは,
箱庭的な世界,
として自己完結させるのなら,それでもいい。しかし,芝居に必要なのは,そうした,
自己完結性,
ではないのではあるまいか。少々芝居の結構が崩れていても,人物描写が多少破綻していても,この現実の世界と,
相渉(わた)る,
ことがなければ,芝居として舞台に世界を描く意味がない。むろん,作家の脳内自己完結はかまわない,作家自身が,
リアル世界と相渉っている,
限り。しかし,それは,作品の自己完結を諒とすることではない。しかし,逆に言うと,あるいは,
芝居の自己完結,
は,作家の,
自己完結の反映,
であり,作家自身が,
自己完結した世界,
に閉じこもり,現実と相渉っていないことを露呈しているのかもしれない。そのことは,テーマが,
反戦劇であるとか,
時代劇であるとか,
古典劇であるとか,
喜劇であるとか,
ドタバタであるとか,
シリアスであるとか,
等々とは関係ない。それはチャップリンを思い起こせばいい。
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