2016年09月29日

フロー体験


M・チクセントミハイ『楽しみの社会学』を読む。

楽しみの社会学.jpg


本書の原題は,

Beyond Boredom and Anxiety

である。これは,行動主義のB・F・スキナーの,

Beyond Freedom and Di gnity,Bantam

のパロディとされる。訳者(今村浩明)は,あとがきで,

「スキナーは,同書の中で一種の人間機械論…を展開し,人間へのオペラント条件づけを重視」

したらしいが,まさに本書は,スキナーがスルーした人の内発的動機づけに焦点を当てていることの高らかな喧伝でもある。

本書は,既に著名な,

フロー体験,

を発見するに至る経緯を著わしたものだ。本文中で,

「不安と退屈という二つの変数の彼方にある行為の経験」

と,著者は,書いている,

「内発的報酬を得る行動の,新しいモデル」

をつくるために,

「我々が最初この研究に取り組んだ方法は,できるだけ多くの,オートテリック(ギリシャ語のauto=自己とtelos=目標,目的との合成語)活動を行っている人々と会い,なぜ彼らがこれらの行動を行っているのかをたずねるという単純なことであった。その活動がある型に従った大きなエネルギー消費を必要とし,もし世俗的な報酬が与えられるとしても,それがわずかなものであるならば,その活動をオートテリックなものと仮定した。最初に我々は大学のホッケーとサッカーの選手,洞窟探検家や探検家,国際的に著名な一人の登山家,ハンドボールの優勝チームの一選手,それに一人の水泳長距離世界記録保持者を含む,約六十名に対して予備的面接を行った。更にこれらの面接の結果から,質問紙と,より精密な面接を行った。
 これらを用いて,自己目的的活動を行っている他の数多くの人々を調べた。その中には,次のような人々が含まれている。即ち熟達者と若干の初心者を含むロック・クライマー三〇名,初心者から名人までを含む男性チェス・プレイヤー三〇名,合衆国で一流の女性チェス・プレイヤー二三名,現代音楽の職業作曲家,初心者とプロを含む女性モダン・ダンサー二八名,ボストン地区の選手権を獲得した二校のハイスクールのバスケットチームのメンバー四〇名である。」

この他,本書には,二一名の外科医の調査に基づく結果もある。

「フロー」ということば自体が,こうした面接の中で,ロック・クライマーが,

「ロック・クライミングの神秘で崇高な雰囲気は,登るということの中にあります。頂上について終ったと喜ぶ。しかしほんとうは永遠に登り続けることを望んでいるのです。…クライミングを意味づけるものは登るということなのです。自分自身の内にあるもののほか,征服すべきものなど何もありません…。…自分が一つの流れ(フロー)であることの認識ですね。フローの目的は流れ続けること,頂上やユートピアを望むということではなく,流れの状態を保ち続けるということです。登るということではなく,絶え間のない流れなのです。この流れを保つために登っているにしかすぎません。クライミングにとって,登るということ以外に考えられることはありません。それは自分との対話なのです。」

という面談での話から「借用したもの」なのである。本書では,

チェス・プレイヤー,
ロック・クライマー,
ロック・ダンサー,
外科医,

についてそれぞれ章を立てて,詳述しているが,フロー体験(特に,深いフロー体験)は,次のように特徴が整理されている。

第一は,行為と意識の融合。

「通常,人はわずかの間しか意識と行為との融合を維持できない。その融合は彼が外からの視点を採るという幕間をいれることによって壊されてしまう…。」

第二は,その活動は実行可能で手頃なものでなければならない。

「フローは遂行すべき課業が,人の遂行能力の範囲内にある時にのみ生ずるようである。」

第三に,限定された刺激領域への,注意集中から生ずる。

「自分の行為への注意の集中を確かなものにするためには,邪魔になる刺激を注意の外に留めておかねばならない。」

第四に,自我の喪失,自我忘却,自我意識の喪失。

「『個の超越』『世界との融合』とすら表現されてきたものである。」

第五に,自分の行為や環境を支配している。

「多くの場合,フロー状態が続いている場合,自分の技能は環境の求めるところと一致していた…。…環境を支配しながら,同時に環境に融合しているという感じ…。」

第六に,首尾一貫した矛盾のない行為を必要とし,個人の行為に対する明瞭で明確なフィードバックを備えている。

「フロー体験という人為的に単純化された現実においては,何が『正しい』か『間違っている』かが明確にわかり,目的と手段が論理的に整理されており,現実での生活のように両立しないものごとの遂行を期待されることもない。」

第七は,自己目的的である。

「明らかにそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないということである。」

そして,これらのフロー体験の特徴は,

「互いに結びつきあい,依存しあっている。フロー活動は刺激の領域を限定することによって,人々の行為を一点に集中させ,気持ちの分散を無視させるが,その結果,人々は環境支配の可能性を感ずることになる。フロー活動は明瞭で矛盾のないルールを持っているところから,その中で行動する人々は,しばしの間,我を忘れ,自分にまつわる問題を忘れることができる。」

である。ポジティブ心理学のセリグマンは,

その任務は困難であり,技能が必要である,
集中できる,
はっきりしたゴールがある,
すぐにフィードバックが得られる,
たやすく深くかかわれる,
コントロールする感覚がある,
自己意識が消滅する,
時間が停止する,

と,ちょっとニュアンスを変えてまとめている。こうしたフロー体験の構造は,

「人々の行為の機会を自分の能力にちょうど適合したものとして知覚した時,フローは経験される」

ものであり,

「行為への機会が自分の能力よりも大きければ,結果として生ずる緊張は不安として経験される。挑戦に対する能力の比率がより高く,しかも依然として挑戦が彼の技能よりも大きいならば,その経験は心配である。フローの経験は,行為への機会が行為者の技能とつり合っている時に感じられ,従って,その経験は自己目的的である。技能が,それを用いる機会よりも大きい時には退屈状態が生じる。技能の挑戦が大きすぎると,退屈は次第に不安へと手効する。」

と。そして,

「フローを経験する手順は…,現実世界を,ある範囲に限定すること,現実世界のいくつかの局面を支配すること,フロー活動に無関係なものを排除する注意の集中によってフィードバックに反応することなど」

は同一過程らしい。それにしても,注意散漫な,僕らのような人間には,

深いフロー,

に代わって,「テレビを見る,腕を伸ばす,コーヒーを飲みながら歓談する等」の

小さなフロー(マイクロフロー),

というものがあり,それは,

ウィンドウショッピング,買い物をする,
画廊へ行く,
他者と無駄話をしたり冗談を言う,
社交的行事に参加する,パーティに出る,
性的活動,

等々という,「社交的」領域が28.6%を占めている,という。考えれば,

現実世界を,ある範囲に限定すること,
現実世界のいくつかの局面を支配すること,

というフロー体験の要件に合うことを考えれば,

散歩,
ウォーキング,
一人でゲームする,

等々も,

鼻歌を歌う,
心の中で妄想する,
独りごと,

等々も,

プチ集中,
プチ熱中,

といってよく,その意味で,軽いフローのない生活はないのかもしれない。

参考文献;
M・チクセントミハイ『楽しみの社会学』(新思索社)
マーティン・セリグマン『世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生』(アスベクト)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:40| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする
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