基準値


村上道夫・永井孝志・小野 恭子・岸本 充生『基準値のからくり』を読む。

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サブタイトルは,

「安全はこうして数字になった」

である。数字になると,独り歩きを始める。本書に,

Standards are devices to keep the lazy mind from thinking.

という,アメリカの疫学者ウイリアム・セジウィックの言葉が引用されている。

「基準というものは,考えるという行為を遠ざけてしまう格好の道具である。」

と。本書は,工学系二人,理学系一人,経済学系一人による,基準値のからくりを明らかにするものである。範囲は幅広く,奥が深い。最近でいえば,被爆線量の基準値がどうやって定められたのか,未成年の飲酒禁止が二十歳なのはなぜか等々,ざぐっていくと闇の中に紛れてしまうものも少なくない。欧米ではその経緯が公にされているのに,我が国ではブラックボックスになっているものも少なくない。

安全の基準を考えるヒントは,国際的な安全規格に関する「ガイド51」(ISO/IEC Guide 51)に,

「受け入れられないリスクのないこと」

という定義がある。この定義は,

「安全とは『リスクゼロ』,つまり絶対安全という状態を意味しない。さまざまなリスクについて,それを社会が受け入れられるか,受け入れられないかを判断し,『受け入れられないリスク』がない状態を安全とする。『受け入れられないリスク』がどれくらいかについて社会が合意をもつことで,安全という抽象的な概念が具体的・定量的に議論できるようになる。これに基づいて基準値が定められ,守られることで,社会は安全を確保することができる。そのような考え方である。」

この前提は,設定プロセスとその根拠が,オープンでなくてはならない。でなくては,社会的合意にはならない。ということは,

「放射能汚染について,政府関係者や有識者がいう『基準値以下だから安全』とは(彼らが安全の意味を正しく理解していると解釈すれば)『受け入れられないと社会が合意したリスク』よりも低いから安全,という意味である。これに反発する人たちのいう『基準値以下でも安全とは思えない』とは(実際のリスクの程度を知ることの難しさはおいて),『自分にとっては受け入れられないリスク』だから安全ではない,と言っているのである。」

というやりとりが「かみ合うはずがない」のは,そもそも「リスク」について,ほぼオープンな議論がなされてきていない,というわが国の設定結果をあらわにしているとも言える。たとえば,水道水質基準は,1995年に,

「WHOの飲料水質ガイドラインにならい,生涯発がん率が『10万人に1人』というレベルで設定され,こうしたリスクレベルにもとづく基準値設定をしたことを国民に公開するか否かが議論されたが,『時期尚早』と判断され,明示されなかった。」

この経緯は,国民の無関心,お上に委ねる志向にもよるが,基準値の設定プロセスが公開されない背景を象徴している。アメリカやイギリスでは,1970~80年代,

「受け入れられないリスクについての研究や社会調査・議論が熱心になされてきた。
 たとえば米国では,食品中の発がん物質がどの程度までなら安全と見なすかについて論争が巻き起こり,何度も裁判が繰り返されているうちに,一つの化学物質について発がんリスクとして受け入れられるレベルは,生涯でがんが生じる割合が『1万人に1人』から『100万人に1人』くらいという範囲に落ちついた。(中略)
 これらに対し,残念ながら日本では,…『受け入れられないリスクの水準はどれくらいか』という議論はほとんどなされていない。(中略)たいていの場合,海外で使われている数字をそのまま輸入している。」

基準値には,「受け入れられないリスク」という考え方の以前にあった,

環境基準型の基準値,すなわち無毒性換算型(NOAEL No Observed Adverse Effect),
残留農薬型の基準値,ALARA型(As Low As Reasonably Ach ievable),

があり,前者は「無毒性=ゼロ」であり,ゼロリスクを目指す考え方,後者は,「できる限り低く」する努力をするという考え方であり,特に前者は,

「化学物質の毒性を基準に決められているので一見,根拠はわかりやすい。」

が,しかしそんなにクリアではない。たとえば,水俣病の原因になったメタル水銀。

「厚生省(当時)は1973年,魚介類の水銀について暫定的規制値として0.4mg/kgを設定した。この基準値は,水俣病患者の調査結果から導出されたものである。…導出法は,環境基準型と同じ無毒性換算型である。
 ところが,この基準値にはからくりがある。マグロ類(マグロ,カジキ,カツオ),深海性魚介類(メヌケ類,メンメダイ,ギンダラ,ベニズワイガニ,エッチュウバイガイ,サメ類),河川産魚介類(湖沼産の魚介類は含まない)などについては,適用除外とされたのである。
 その理由として,高級魚類のため摂取量が少ない,含有される水銀が天然由来である,健康被害の懸念がない,という説明がなされていたが,これはかなり違和感を覚えるものだ。マグロは日本人の食卓になじみが深いものであるし,天然由来の水銀だから健康被害が起こらないというのは論理的ではない。
 では,実際にこれらの魚類は水銀をどのくらい含んでいるのだろうか。2003年に厚生労働省が公開した,これらの魚介類の水銀濃度は,…なんと,のきなみ暫定規制値を超えてしまっている。」

本書では,

飲食物に関する基準,
環境にまつわる基準,
事故に関する基準,

を取り上げていく。プロローグで,基準値の特徴を,

①従来型の科学だけでは決められない(「予測・評価・判断をともなう科学を…『レギュラトリーサイエンス』と呼ぶ」),
②数字を使いまわする(欧米や関連する基準値,他国基準をベースに定めていく),
③一度決まるとなかなか変更されない(日本では科学的判断を加えて定期的に改定する手続きの制度がない),
④法的意味はさまざまである(「規制知」「指針値」「目標値」さまざまに呼ばれ,罰則規定のない基準値もある),

と挙げている。それにしても,恣意的だったり,欧米の焼き直しだったりしても,数値は独り歩きする。そもそも基準値は何のためのものか。

「安全やリスクをどのように管理すべきか,という問いは,つきつめれば,どのような環境や暮らしを求めているのか,という価値観の問題になる。さまざまな価値観をどのように,どこまで安全管理に反映させるのか,私たちはどのような世界をめざしているのか。そのような問いを私たちに突きつけたのが,第一原発の事故だったのではないだろうか。基準値設定において前提になる『受け入れリスク』には,本来そこまでの考えが求められるはずだ。」

というプロローグの言葉が皮肉である。何一つ合意形成もないまま,リスクの見積もりもそこそこに原発を再稼働させようとする政権には,

どんな社会を目指すか,

よりも,

誰が得するか(誰が損するか),

という(為政者と官僚と関係者の)目先の利益しかないように見える。そのとき,基準値は,

自己弁護と合理化の道具,

にしかならない。何の(誰の)ための基準値かは,置き去りにされたままである。

参考文献;
村上道夫・永井孝志・小野 恭子・岸本 充生『基準値のからくり』(ブルーバックス)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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