山種美術館の「速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造―」
http://www.yamatane-museum.jp/exh/current.html
を観てきた。絵について造詣があるわけでもないし,まして日本画について,薀蓄を語れるほどの知識も経験もないので,まったく個人的な関心,若描きの作家の絵が,どんな問題意識で,
どう成長したのか,
を観ようと思った。注目したのは,
写実力
と,
空間配置,というか空間の間(余白)の取り方,あるいは,地と図のバランス,
である。僕には,有名な,
『炎舞』
は,その頂点にある,と見えた。ここには,一つの世界がある。
『炎舞』
例えば,『遊漁』(1922年)という作品がある。まだ間(余白)のないただ泳ぐ魚を写しただけのものだ。それが,『沙魚図』(1925年)になると,上部に間(余白)が広がり,『春池温』(1933年)になると,梅の枝先に悠然と泳ぐ一尾の鯉が描かれ,写実と間(余白)取りが一体になる。この流れの中に,彼の目指したものかどうかは知らないが,間(余白)と写し取る力とが一つの頂点を示す。その意味では,『紅梅・白梅』(1929)の,シンプルな構図がいい。地という間(余白)次第で,図としての絵が生きる,という感じがした。
『春池温』
僭越ながら,『炎舞』と並んで著名な,
『名樹散椿図』
は,僕には,つまらなく見えた。こちらの現実感覚に依存している分,ひとつの世界として屹立する力が弱い。屏風絵のせいかもしれない。『炎舞』と比べての話だが。
『名樹散椿図』
僕は,間(余白)というか,「地」に惹かれるらしく,『夜桜』(1928年)もいいが,『あけぼの・春の宵』《あけぼの》と「あけぼの・春の宵」《春の宵》(1934年)もいい。
『夜桜』
『あけぼの・春の宵』《あけぼの》
「あけぼの・春の宵」《春の宵》
最晩年の,絶筆とされる,『円かなる月』(1935年)は,月の位置がいい。それと張り合うように,松の枝が,間を詰めて,一つの世界を描いている。
《円かなる月(絶筆)》
人には,必要なことが起き,必要な結果がもたらされる,という。とすれば,これが,死を目前にしたこの世の絶景なのではないか。そう見るとき,月の位置がことのほか,意味深に見える。御舟の目の高さが,反照しているように。
参考文献;
http://www.yamatane-museum.jp/collection/collection.html
http://www.yamatane-shop.com/product-group/3
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
【関連する記事】