2016年10月17日

御舟


山種美術館の「速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造―」

http://www.yamatane-museum.jp/exh/current.html

を観てきた。絵について造詣があるわけでもないし,まして日本画について,薀蓄を語れるほどの知識も経験もないので,まったく個人的な関心,若描きの作家の絵が,どんな問題意識で,

どう成長したのか,

を観ようと思った。注目したのは,

写実力
と,
空間配置,というか空間の間(余白)の取り方,あるいは,地と図のバランス,

である。僕には,有名な,

『炎舞』

は,その頂点にある,と見えた。ここには,一つの世界がある。

御舟・炎舞.jpg

『炎舞』


例えば,『遊漁』(1922年)という作品がある。まだ間(余白)のないただ泳ぐ魚を写しただけのものだ。それが,『沙魚図』(1925年)になると,上部に間(余白)が広がり,『春池温』(1933年)になると,梅の枝先に悠然と泳ぐ一尾の鯉が描かれ,写実と間(余白)取りが一体になる。この流れの中に,彼の目指したものかどうかは知らないが,間(余白)と写し取る力とが一つの頂点を示す。その意味では,『紅梅・白梅』(1929)の,シンプルな構図がいい。地という間(余白)次第で,図としての絵が生きる,という感じがした。

春池温.jpg

『春池温』


僭越ながら,『炎舞』と並んで著名な,

『名樹散椿図』

は,僕には,つまらなく見えた。こちらの現実感覚に依存している分,ひとつの世界として屹立する力が弱い。屏風絵のせいかもしれない。『炎舞』と比べての話だが。

『名樹散椿図』.jpg

『名樹散椿図』


僕は,間(余白)というか,「地」に惹かれるらしく,『夜桜』(1928年)もいいが,『あけぼの・春の宵』《あけぼの》と「あけぼの・春の宵」《春の宵》(1934年)もいい。

「夜桜」.jpg

『夜桜』

あけぼの・春の宵」《あけぼの》.jpg

『あけぼの・春の宵』《あけぼの》

「あけぼの・春の宵」《春の宵》.jpg

「あけぼの・春の宵」《春の宵》


最晩年の,絶筆とされる,『円かなる月』(1935年)は,月の位置がいい。それと張り合うように,松の枝が,間を詰めて,一つの世界を描いている。

《円かなる月(絶筆)》.jpg

《円かなる月(絶筆)》


人には,必要なことが起き,必要な結果がもたらされる,という。とすれば,これが,死を目前にしたこの世の絶景なのではないか。そう見るとき,月の位置がことのほか,意味深に見える。御舟の目の高さが,反照しているように。

参考文献;
http://www.yamatane-museum.jp/collection/collection.html
http://www.yamatane-shop.com/product-group/3

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 美術館 | 更新情報をチェックする
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