2016年10月27日
「『社会』科学」としての経済学
宇沢弘文『経済学の考え方』を読む。
冒頭に,こうある。
「経済学は,人間の営む経済行為を直接の対象とし,現実の経済現象の根底にひそむ本質的な諸要因を引き出し,経済社会の基本的な運用法則を明らかにすると同時に,貧困の解消,不公平の是正,物価の安定,さらには経済発展の可能性を探ろうという実践的な意図をももつ。経済現象は,一つの社会あるいは複数の社会において,大勢の人々が,お互いに深い関わりをもちつつ,それぞれの置かれた歴史的,文化的,技術的,制度的な制約条件のもとで,どのような経済的行動を選択するかということによって,その特質が定まってくる。経済学はこのような意味で,『社会』科学である。と同時に,それぞれの社会のもつ制度的諸条件を明らかにし,そこに置かれた人間がどのような行動をとるかということについて,科学的な方法によって,その法則性を解明しようとする,そのような意味で,『社会』科学である。」
と。これを,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/443043807.html
で取り上げた,小島寛之氏の,
「経済活動の運動法則を,物理学と類似した形で解明しようと試みるのが経済学である。」(『経済学の思考法』)
という定義と比較すればその違いが,歴然としている。経済法則を,社会的,制度的な背景,つまり文脈抜きで,自己完結させられる,と考えているらしいのである。そう考えるから,「経済学がなかなか進歩できない理由」として,
「第一の理由は,経済に関しては実験がままならない,ということだ。」
「第二の理由は,物質は観測者の意志によって行動を変えないが,人間は行動を変える,ということだ。」
と挙げ(この考え方はニュートンの世界観しか反映していない。今日の量子論の世界観は,観察によって変わるのだが),
「経済学の致命的な弱点」として,
「経済活動は,『歴史的事象』,『一回性のできごと』であり,『実験がままならない』という弱点」
を挙げていた。しかし,それはおかしい。それを所与して考えるのが経済学ではないのか。発想が逆転している。その可笑しさは,著者の,次の言葉を読めば明らかである。前述の「『社会』科学」に続いて,
「しかし,経済学は普通の意味における科学とは異なる面をもつ。それは,経済学が対象とする経済現象はあくまでも,歴史的過程のもとにおける人間の社会的行動に関わるものであって,繰り返しを許さない歴史的な現象であるということである。そこでは,自然科学にみられるような実験をおこなうということは許されないし,また天文学のように,同じ条件のもとで多くの観察をおこなうということもごくまれにしかできない。したがって,経済学の研究にさいしては,とくに深い洞察力と厳しい論理力とが必要になってくる。」
と書く。上述の小島氏は,経済学の前提が異なっている。経済学の足枷は,そもそも経済学の前提なのではないのか。しかし,著者は同時に,
「経済学はまた,すぐれて実践的な面をもつ。経済学者がなにゆえ,経済学に関心をもち,経済学の研究を一生の仕事としようと決意するのかというと,貧困と分配の問題にその原点をもつことが多い。」
と付言し,川上肇の『貧乏物語』を,
「日本での経済学の入門書としてもっともずぐれた書物のひとつ」
として挙げる所以である。
本書は,1988年,バブルのはじける直前に書かれたものだ。著者自身が,「あとがき」で,
「本書は,経済学史の書物ではない。経済学の考え方がどのように形成され,発展してきたのかという面に焦点を当てた。経済学者が,その生きたときどきの時代的状況をどのように受けとめ,経済学の理論の形に昇華させていったのかという面を強調したかった。」
と述べる通り,人に焦点が当たっている。多くは,平坦だが,時に,辛辣になる。特に,70年代のマネタリズムに代表される「反ケインズ経済学」対する口調は厳しい。
「1970年代の経済学は,一言でいえば,反ケインズ経済学といってもよいように思われる。七〇年代に流行した経済学の考え方がいずれも,ケインズ以前の新古典派経済学の考え方ないしはそのバリエーションを基礎として展開されたものであって,しかも,その生成が,ケインズ経済学に対するアンチテーゼを形成するという明示的な意図でもってなされてきたからである。反ケインズ経済学は,合理主義の経済学,マネタリズム,合理的期待形成仮説,サプライサイド経済学など多様な形態をとっているが,その共通の特徴として,理論的前提の非現実性,政策的偏向性,結論の反社会性をもち,いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつものである。」
その代表的な経済学者フリードマンの,
「ある一つの経済理論にかんして,その前提条件について,その当否を問うことはできないし,すべきではない。その前提条件から演繹され,導き出された理論的あるいは政策的命題が,現実の状況を適切に説明し,望ましい政策的な帰結をもつか,否かによってのみ,その理論の当否を問うべきである…。」
に対して,
「フリードマンの主張は,ケインズが『一般理論』の冒頭で展開した考え方とまさに対照的なものである。ケインズは,経済理論の当否は,その理論前提が,対象とする現実の経済制度の,制度的,社会的,技術的な条件を的確に反映したものであるか,否かということによって決まるものであり,そこから導き出される理論的,政策的命題が望ましいか,否かということとはまったく無関係なものであるということを強調したのであった。」
と批判した。前提条件を立てて,「望ましい製作的な帰結」をもたらすものは,政治的経済であって,経済学ではない。
今日,レーガン,ニクソンの系譜につながる,「前提条件から演繹され,導き出された理論的あるいは政策的命題が,現実の状況を適切に説明し,望ましい政策的な帰結をもつ」らしい日本の経済政策をみるとき,70年代のアメリカの経済政策についての,以下の言及が,シンクロするのは当たり前のように見える。
「社会的不均衡というとき,…社会的共通資本と私的資本の相対的バランスを維持するようなメカニズムを内蔵していないような状況を指す。政府の政策的対応が,市場経済に内在する不安定的要素を相殺することができず,私的資本と社会的共通資本の間の相対的バランスが崩れて,しかもそのバランスを回復するメカニズムが,政策的な対応も含めて考えたときに,すでに失われているような状況を社会的不均衡と呼ぶわけである。」
「政府が中立的な立場に立って,有効需要のファイン・チューニング(微調整)をおこなうことがはたして可能であろうかという問題である。ここで,政府の中立性というとき,二つの側面をもつ。まず第一に,政府のおこなう財政・金融政策ないし経済政策一般について,その効果が市場経済における経済循環のプロセスに対して中立的であるか,否かという問題である。第二の問題は,政府の選択する経済政策が,市場経済の制度的諸条件から中立的でありうるか,否かという問題である。資本主義的な市場経済制度自体,ある一つの社会体系のなかで歴史的過程を経て形成されてきた一つの歴史的段階であるが,政府の経済政策決定のメカニズムもまた,同じ社会的,歴史的条件のもとで形成されるものであって,とくに政治的民主主義をたてまえとするときに,政府の行動が市場経済制度を特徴づける諸条件と無関係に,中立的な立場にたって策定され,実行に移されてゆくという前提条件が妥当しているとは考えにくい。政府の行動も究極的には,資本主義的な市場経済制度を支えている歴史的,社会的,文化的な諸要因によって規定されるということが当然の帰結となるであろう。」
参考文献;
宇沢弘文『経済学の考え方』(岩波新書)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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