2016年11月27日
知と智
智恵(智慧),
とも書くが,
知恵,
とも書く。
知能,
も
智能,
とも書く。「知」と「智」の違いが気になる。『広辞苑』は,「ち(知・智)」として,
物事を理解し,是非・善悪を弁別する心の作用(「智・仁・勇」「智恵」「才智」),
賢いこと,物知り(「智者」「智将」)
はかりごと(「智謀」),
仏経では多く,「知」は一般の分別・判断・認識の作用,「智」は,高次の宗教的叡智の意味に用いる,
とあるが,用例をすべて「智」をとる。例えば,「智恵」は「知恵」とも書くし,「智謀」は「知謀」とも書くし,「智将」は「知将」とも書く。意図的かどうかはわからない。『古語辞典』も,「ち(知・智)」として,
儒教で言う,五常・三徳の一。万事を正しく理解し,是非・善悪を弁別する心の働き,
知能・知力,
と載せる。さすがに,『大言海』は,「知」と「智」をきちんと別に項を立てている。
「知」は,
知ること,知覚,
しりあい,知人
人に知らるること,
智に同じ,
とし,「智」は,
「釋名,四,釋言語篇『智,知也。無所不知也』」
と注記し,
「五常の一,三徳の一。心に物事の理を敏く覚りて,是非を分別するを得る力。智慧」
とある。さらに,
「名義抄,『智,サトシ,サトル,サカシ』」
等々と付記する。どうやら,「智」は,単に「知る」のではなく,「知らざる所無し」を「智」とする。一応の区別である。
因みに,五常とは,例の,
仁・義・礼・智・信,
を指す。「智」は,
「道理をよく知り得ている人。知識豊富な人。」
三徳とは,
智・仁・勇,
の徳目をいう。仏教では,「智慧」は,
「道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。特に『智慧』は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。『智』は相対世界に向かう働き、『慧』は悟りを導く精神作用の意」
とし,「智慧」と「知恵」は区別される。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211290417
に,
「『智慧』とは仏様からのもので、『知恵』とは自身の心から生じるものです。ですから、意味は全く異なってきますね。
『知恵』は、人がその人生においてさまざまな経験を積み重ねていく中で、否が応でも生じる弊害や苦悩、迷いを克服していく過程のなかにおいて、あらゆる学問などを通じて培った『知識』を、如何に自身の心で消化して、自分のものとするか。だと考えます。知識は外部から入ってくるものであり、知恵は自身の中から生じるものである、ということでしょうか。ですから、苦労すればするほど、またその壁を乗り越え進む人ほど『知恵』は豊かとなるでしょう。
また『智慧』とは、御本尊と正面から向き合い、仏道修行する中で、仏様の命の境涯(仏界)に縁して、自身の心(命)にも在る「仏界」を認識していくことですね。たとえ自分の望みとは逆の結果となっても、それが仏様からの答えであり、「御仏智」として捉えることでもあります。
自力だけではどうにも解決できない事や、迷いの原因であるところの煩悩を、御仏智により鮮明に映し出し、認識し、納得する。この行為、姿勢そのものが仏道修行ともなります。またその為には、自身の心に宿る『弱さ(宿業)』と対峙しなくてはなりません。ここで言う『弱さ』とは、例外なく誰の心にも在る『妬み・憎悪・貪欲』など、人を不幸にする悪因であります。そこに気付かせて頂き、認識した以上は自力で正し、律していく。大変過酷な修行ともいえますが、それこそが『智慧』であります。」
とある。仏教で言う,六波羅蜜,
①布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
②持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
③忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
④精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
⑤禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
⑥智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。
の第六に「智」があり,「慈悲」と対とされる。龍樹の,
布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」
の解脱の位置にある。知らざる所無し,とはまさにこれを指す。「知」とは異なる。
「知」の字は,
「『矢+口』で,矢のようにまっすぐに物事の本質を言い当てることをあらわす。」
とされる。「知」は「識」と同じく,
しる,
意味で,
「知は識より重し,知人知道心といへば,心の底より篤と知ることなり,知己・知音と熟す。識名・識面は,一寸見覚えあるまでの意なり。」
と比較している。知覚の意,と『大言海』にあった所以である。
「智」の字は,
「知は『矢+口』の会意文字で,矢のようにすぱりと当てて言うこと。智は『曰(いう)+音符知』で,知と同系,すぱりと言い当てて,さといこと」
とあり,漢字で見る限り,区別はつかない。しかし,「智」の対は,
愚,
であり,
闇,
とある。儒教と仏教が区別したが,あるいは,「知」「智」は,
曰う,
の有無の差でしかなかったのかもしれない。「曰」とは,
「『口+乚印』で,口の中から言葉が出てくることを示す。」
口に出す,
あるいは,
口に出せる,
かどうかに意味があったのかもしれない。しかし,いかに知っていようと,おのれの言葉で,そのことを語れるかどうかは,大きい。それは,
何を知っているか(何を知らないか),
を知っている,
を知っている,ということかもしれない。『論語』で,「知る」を,
「知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ」
といったことに通じる。その意味で,
知
と
智
の差は,小さくはない。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B8%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%BE%B3_(%E5%84%92%E5%AD%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
ホームページ;
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今日のアイデア;
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