2016年11月30日
社会的共通資本
宇沢弘文『宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理』を読む。
本書の著者について,解説の小島寛之氏は,
「一般には,アメリカ時代と帰国後では別種の経済学を展開したと評されることが多い。アメリカ時代は,経済学の主流派である新古典派と呼ばれる学派の方法論を用い,帰国後は制度学派と呼ばれる学派の方法論に転じたということである。
前者は,数学モデルを用いて,いわば物理学のような方法で経済現象の法則を解明する。他方,後者は,歴史学・文化論・社会思想などの総合的な観点から,主に人文学的な手法を使って,経済のあり方を分析するものである。この二つの方法論は,ある意味では相容れない水と油のような関係にある。」
と。本書は,帰国後の,
社会共通資本の理論,
についての解説書になる。本来は,生前私家版として刊行されたものを,再編集して上梓されたものになる。
アダム・スミスから書きはじめる本書で,
「スミスは,『道徳感情論』で,ハチスン,ヒュームの思想を敷衍して,共感(sympathy)という概念を導入し,人間性の社会的本質を明らかにしようとしたのであった。人間性のもっとも基本的な表現は,人々が生き,喜び,悲しむというすぐれて人間的な感情であって,この人間的な感情を素直に,自由に表現できるような社会が新しい市民社会の基本原理でなければならないと考えた。しかし,このような人間的な感情は個々の個人に特有なもの,あるいはその人だけにしかわからないという性格のものではなく,他の人々にとっても共通のものであって,お互いに分かち合うことができるようなものである。このような共感の可能性を秘めているのが人間的感情の特質であって,人間存在の社会性を表現するものでもある。」
そして,「市民社会を,このような共感の可能性を秘めた社会的人間の集団としてとらえようとする」のが,スミスの考え方の基礎にあった,と。それは,
「一人一人の市民が,人間的な感情を素直に,自由に表現し,生活を享受することができるような社会,それが新しい市民社会の理念であるが,そのような社会を形成し,維持するためには,経済的な面で十分にゆたかになっていなければならない。健康で文化的な生活を営むことが可能となるような物質的生産の基礎がつくられていなければならないというのがスミスの考え方だった。」
その考え方の上に,
「『国富論』は,このような意味で,『道徳感情論』を基礎において,新しいリベラルな市民社会の経済原理を明らかにしようという意図をもって書かれたものであった。」
と。この中に,著者の思いもまた詰まっているように見える。なぜなら,ジョン・スチュアート・ミルは,それを受けて,
Stationary state
つまり,
「マクロ経済的にみたとき,すべての変数は一定で,時間を通じて不変に保たれるが,ひとたび社会の中に入ってみたとき,そこには,華やかな人間的活動が展開され,スミスの『道徳感情論』に描かれているような人間的営みが繰り広げられている。新しい製品がつぎからつぎに創り出され,文化的活動が活発に行われながら,すべての市民の人間的尊厳が保たれ,その魂の自立が保たれ,市民的権利が最大限に保証されているような社会が持続的(sustainable)に維持されている。このようなリベラリズムの理念に適ったstationary stateを古典派経済学は分析の対象にしたのだとミルは考えたのである。」
果たして,ミルのいうような,
「国民所得,消費,投資,物価水準などといあうマクロ的諸変数が一定に保たれながら,ミクロ的にみたとき,華やかな人間的活動が展開されているという」
Stationary state
は,現実に実現可能なのか,この設問に答えたのが,著者の依拠するソーンスティン・ヴェブレンの,
制度主義の経済学,
だからである。それは,
「さまざまなsocial common capital(社会的共通資本)を社会的な観点から最適なかたちに建設し,そのサービスの供給を社会的な基準にしたがっておこなうことによって,ミルのstationary stateが実現可能になるというように理解することができる。」
言い換えれば,
Sustainable development(持続的開発),
の状態を意味する。
著者は,ヴェブレンを,
「ヴェブレンがリベラリズムというとき,それは,人間の尊厳と自由を守るという視点に立って,経済制度に関する進化論的分析を展開する…。」
と評する。ヴェブレンは,女性のドレスをめぐって,
「経済学でふつう想定されている,効用最大化を求めて各人が合理的に選択するという理論的前提では,…女性のドレスについては適用することができない。ヴェブレンは,女性のドレスを論ずることによって,当時支配的であった新古典派経済学(こう表現したのもヴェブレンが最初である)の考え方を批判し,否定しょうとしたのであった。」
と。制度派の考え方は要約すると(アーロン・ゴードンによると),
「すべての経済行動は,その経済主体が置かれている制度的諸条件によって規定される。と同時に,どのような経済行動がとられたかによって,制度的諸条件も変化する。この,制度的諸条件と経済行動との間に存在する相互関係は,進化のプロセスである。環境の変化にともなって人々の行動が変化し,行動の変化はまた,制度的環境の変化を誘発することになり,経済学に対して,進化論的アプローチが必要になってくる。」
そして,それを担う人間像は,
「進化論的立場に立ちとき,人間のとらえ方は180度転換する。人間の本性は,行動するということにある。たんに,外部的な力を受けて,喜びや苦しみを味わう,受動的な存在ではない。人間は,たんなる欲望の塊として,環境の影響を受けて,その力に翻弄されるにまかせるという受動的な存在ではない。絶えず新しい展開を求めて,夢をもち,その夢を実現しようとする本源的な性向と,歴史的に受けついできた習慣とをもった,一個の有機体的存在である。人間の活動,特に経済活動は,所与の欲望を最大にするようなものではなく,行動自体が,このプロセスにとって本質的なものである。このような行動を誘発する満足ということは,このような行動によって各人の気質的(テンペラメントな)環境がどのように変化するかということの結果にすぎない。」
という高らかな人間のイメージがいい。そこでの経済活動は,「それぞれの社会の基本的条件を規定する」,
社会的共通資本,
によって左右される。社会的共通資本とは,
「1つの国ないし特定の地域が,ゆたかな経済生活を営み,すぐれた文化を展開し,人間的に魅力ある社会を持続的,安定的に維持することを可能にするような自然環境,社会的装置を意味する。社会的共通資本は,たとえ私有ないし私的管理が認められたとしても,社会全体にとって共通の財産として,社会的な基準にしたがって管理・運営される。」
それは,
「土地をはじめとする,大気,土壌,水,森林,河川,海洋などの自然資本だけでなく,道路,上・下水道,公共的な交通機関,電力,通信施設などの社会的インフラストラクチャー,さらに教育,医療,金融,財政制度などという制度資本も含む。」
その観点から,
都市,コモンズ(入会制のような),
地球環境(温暖化),
学校教育,
医療,
金融制度,
等々が各論で論じられていく。
「社会的共通資本は,官僚的な基準ないしルールにしたがって行われるものではない…。(中略)各機構はそれぞれ該当する社会的共通資本の管理を社会から信託されているのであって,その基本的原則はフィデュシアリー(fiduciary)の概念にもとづくものでなければならない。」
今日わが国の,豊洲市場の経緯や水道事業の私企業への売却等々の制度のありようを観るとき,もはや何をかいわんや,である。随所に著者の憤りが,生の声で聞えてくる。
参考文献;
宇沢弘文『宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理』(日本経済新聞出版社)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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